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神楽坂探訪

花屋さんトップ1
花柳界の面影を残す粋な大人の街「神楽坂」。そんな風情漂う花街の顔ともいえるのが、朱塗りの門でお馴染みの毘沙門天・善國寺です。その門前でいつも慎ましく、ささやかな彩りを街に添えていた露店の花屋さん夫婦がいたことをご存知ですか?
テレビ、新聞、雑誌などで神楽坂が取り上げられるたびに、必ずといっていいほど撮影される毘沙門天。それとセットで写りこむ花屋さんの姿は、いつしか街にすっかり溶け込み、石畳や路地裏とともに神楽坂の日常風景として長く愛され続けてきました。
その花屋さん夫婦が今年7月、高齢を理由に突然引退を宣言。街に衝撃が走ります。
名残を惜しみつつ、花屋さんと記念写真を撮る常連客たち。幼い頃からの馴染みで、惜別の手紙を渡す婦人。青春時代に親しかったからと、遠方から餞別をもって駆けつけた元住民など……。
街商歴45年、先代から数えると69年にも及んだ「毘沙門前の花屋」さん。その閉店までの日々を追いました。 
 
 
◆親しんできた神楽坂の風景が失われる!
 
『ご愛顧いただきました「毘沙門前の花屋」を、
    この九月末日をもって閉めさせていただくことになりました』

 毘沙門前の花屋さんが、常連のお客さんたちに閉店あいさつの手紙を配り始めたのは
7月に入ってからのこと。その話は瞬く間に広まりました。
“慣れ親しんできた神楽坂の風景の一つが失われる”。
街のシンボル・毘沙門天と常に一緒だった花屋さん。馴染み客に限らず、それまで特に気にかけることなく通り過ぎていた人たちも、名残を惜しんで立ち寄る姿が目につくようになりました。
「手紙は、ちょっとした挨拶のつもりだったんだけど。こんなに反響があるなんて、とても驚き(笑)
と話すのは、毘沙門前の花屋さんこと冷岡愛子さん75。街商歴45年、神楽坂の移ろいを毘沙門天とともに見守ってきました。
「上品できれいな方が多くいらして、神楽坂は評判通り素敵な街。お話していて、とても楽しかったです」
感慨深げな愛子さんの横で、夫の定雄さん72も語ります。
「ほんと、いいお客さんたちに恵まれました。神棚や仏壇に供える榊・花を求める人が多いから、信心深くて心が優しいんだろうね」
いつも穏やかな表情を浮かべ、愛子さんの後ろで黙々と作業する定雄さんは元重機の運転手。15年ほど前に退職し、それから愛子さんをサポートするようになりました。
「私は結構、思ったことをポンポンはっきりいうほう。この人(定雄さん)はおっとりしているから、お客さんたちには結構いいコンビに映っていたみたいよ」
と、悪戯っぽく笑う愛子さん。でも、道に迷っている人に気さくに声をかけたり、転んで擦り傷をつくった子にバンドエイドを貼ってあげたり、足を引きずっている人を店の椅子に座らせてあげたりと、愛子さんのさりげない心遣いに感激してファンになる人が多いようです。
冷岡さん夫婦の飾らない人柄、真心からの善意に温かみを感じ、地元の人はおろか、ほかの地域からもわざわざ花を買い求めに来るお客さんがいるとか。閉店を聞きつけ、惜別の手紙を渡す昔からの常連客や、はるばる茨城、神奈川などから、餞別をもって駆けつけた元お馴染みの姿もありました。
花屋1

花売り場の一角では、ひっきりなしに人が出入りしています。
「これから、どこでお花を買おうかしら」
「おばさん、今月で終わりだから一緒に写真撮ろう」
「すごく残念だな……」
さまざまに聞こえてくるお客さんたちの声。寂しさのあまり、閉店あいさつの手紙を思い出にと、2枚、3枚もらって帰る人も――
5枚以上集めたら営業が延長するのよ、なんていっていたら、用意した300枚があっという間になくなっちゃった。また刷らなきゃ(笑)
ここ数年で医者通いも増え、辞めどきをいつにしようかと、ずっと思案していたという愛子さん。70歳を超して終日の外仕事に体力的な限界を痛感し、仕事人生の幕引きを決意しました。でも、やはりお客さんのことが気がかりなようです。
「お店を閉めることで、これまで可愛がってくださったみなさんにご不便をかけるんじゃないかと思うと、なんだか申し訳なくて……」
ちょっと心が痛むけど、残された最後の日まで、できるだけ明るく頑張りたいと微笑む愛子さんと定雄さん。毘沙門前の花売り場では、冷岡さん夫婦とお客さんたちの触れ合いの輪が相変わらず広がっています。忙しく人が行き交う通りで、その場所だけはゆったりとした時間が流れ、不思議な空間を創り上げているようでした。 

花屋2   
 
◆“金魚すくい”から花屋へ、印象的な出会いも
 
山の手七福神の一つとして信仰を集める毘沙門天・善國寺は、東京の縁日発祥の地としても知られています。その“街商の聖地”に冷岡さん夫婦の先代、つまり定雄さんのご両親がやってきたのは昭和24年のこと。境内を借りて最初に開いたのは、金魚すくいのお店でした。
「今でも義父母の頃からのお馴染みさんが、よくいらっしゃるんですよ。昔、金魚すくいに夢中になった子たち(笑)(愛子さん)
当時、110円でやれたという先代の金魚すくい。5匹以上すくったら、もう1匹くれるのが決まりでした。それでも子どもたちは、大きい金魚がほしくて駄々をこねたり、色柄のきれいな金魚をもらおうと必死に交渉したりとたくましさを発揮。そんなやんちゃぶりを先代は温かく受けとめ、ときに好きな金魚をオマケしてあげました。
花街も一番華やかだった時代。芸者さんは400人ほどを数え、料亭も大小合わせて約70軒ありました。毘沙門天の境内には煮込み、焼き鳥などの屋台が並び、紙芝居のおじさんも来て、それは賑やかだったとか。今と比べ娯楽が少なかっただけに、毘沙門天での金魚すくいや先代夫婦との触れ合いは、幼いころの記憶に深く残り、とっておきの思い出になっていると、昔からの常連さんたちは口を揃えます。
昔の神楽坂風景
          ▲昭和戦後の神楽坂界隈~上:芸者さんの姿もみえる神楽坂下周辺、下左: 大久保通り箪笥町付近、
                下右:紙芝居に見入る子どもたち(写真提供:新宿歴史博物館)

 

 しかし、金魚すくいは夏場しか商売にならないため、義母が若いころ習っていた花も扱いだし、次第に花屋さんへと変わっていきました。そして、愛子さんが手伝うようになったのは、義父が亡くなった昭和
48年から。一念発起で運転免許を取得し、子育てと両立させながら、義母と働くようになったそうです。
「姑に連れられ、はじめて神楽坂に来たときは、活気に満ちて、まばゆいばかりに艶やかな街の印象に圧倒されました。夕暮れどき、お座敷に急ぐ美しいお姉さん方があちこちの横丁に消えてゆく姿に、ただただ、みとれたものです」
ときは高度経済成長期。政治家や財界人の多くが地元料亭を利用し、花柳界を舞台に精力的な活動を展開していました。「そのような人たちはお忍びで来るから、会ったことない」と話す愛子さんですが、常連さんの中には田中角栄元総理の奥さんと名乗る婦人もいたとか。
「いつも、お手伝いさんと一緒にいらしてね。ご自宅の庭でなった柿を差し入れてくださったりして。気さくな優しい方でした」
愛子さんにとって、ちょっとした思い出になっているようです。  

 
◆「もうひと踏ん張り」をくれた家族の真心と絵
 
露店で花屋を営み続けるのは、想像以上に大変なことです。冷岡さんたちの1日をみると毎朝午前5時に起床し、板橋区の高島平にある花市場で競りに参加。その後、諸々の準備を整え、毘沙門天に到着するのが10時半前後になるとか。それから花を並べ、机や椅子を置き、営業を開始するのがだいたい11時半過ぎ。
店の片づけは、お客さんの相手をしながら18時ぐらいから取り掛かり、すべて片付け終わって引き上げるのがいつも20時半近く。雨の日だとテントも張るので、労力と時間は倍以上になります。
こうした生活を毘沙門前の花屋さんは、ずっと続けてきました。それこそ、太陽が照りつける暑い夏の日も、冷たい北風が吹く冬の日も、来る日も来る日も……。
花屋5

 「一番印象に残っているのは数年前の大雪の日。一番忙しい年末の29日と31日に降って、あのときは本当にきつかった」(愛子さん)
でも、もっと辛いのは、天候不順で花の出荷が少なく、品物が思うように手に入らないこと。お客さんを思うと、悲しい気持ちになって落ち込むとか。それだけに、いい花を仕入れ、「素敵な花を有難う」「まだきれいに咲いているよ」といった喜びの声を聞くと、この上ない幸せな気持ちになるそうです。  
花屋6
 
愛子さんが先代の義母と一緒に働いたのは、昭和59年までの11年間。その後は定雄さんが加わる平成15年まで、19年間をほぼ一人で花屋さんを切り盛りしてきました。
「おばあちゃん(義母)とは、実はよくケンカしました。商売のことじゃなくて、子育てを巡って。でも、さっぱりしていて気持ちのいい人だったから、本当に困ったときはなんでも相談しました」
信頼し、頼りにしていた義母から引退を切り出されたとき、不安はあったけど「商売の醍醐味を感じ始めていた時期だった」と愛子さん。“石の上にも三年”の気持ちで独り立ちに挑んだそうです。
「この人(定雄さん)の稼ぎがあったから、生活は大丈夫だろうと。まず3年やってみて、利益が出なかったらやめようと考えていました。それが、ちょうどバブルに入る頃だったから、3年目ぐらいから思った以上に儲かり出して、それでどっぷり浸かっちゃった(笑)
毎週月曜日は近所のお馴染みさんのほか、料亭の女将さんやバーのママさんなどもひっきりなしに来て、昼食をとる暇もない忙しさだったとか。さすがに見かねて、「あなた、これだけ忙しいのに、なんで一人なのよ! 人を雇いなさい!」と助言する元気なママさんもいたと、愛子さんは懐かしそうに目を細めます。
花屋7

 しかし、バブルが崩壊すると不況の風が神楽坂の街にも吹き抜け、あれだけ忙しかった商売も苦戦を強いられるようになりました。稼ぎどきなのにネオンの灯らない店、まばらになった街の人影……。常連のお客さんも、数人ほど郊外へ移っていきました。
それでも、愛子さんは踏ん張りました。背中を押したのは家族の励ましと、花を買い続けてくれるお客さんたちの笑顔。
平成15年から退職した定雄さんも加わり、頼もしいパートナーを得た愛子さん。厳しい状況でも夫婦で力を合わせ、淡々と仕事する姿は印象的で、神楽坂を訪れた画家の桐谷逸夫さんが描きとめていました。その作品は新聞にも掲載されたそうです。
「最初に気づいたのが長男のお嫁さん。描いた方の個展も都内で開かれていて、長女と二人で出掛けてその絵を買い、ここ(毘沙門天)に持って来てくれました。あのときは本当に嬉しくて、嬉しくて。一緒に来た孫に、『ババ、泣いてる!』なんていわれちゃった(笑)
この絵があれば、もう何もいらない――。家族の真心と絵は、冷岡さん夫婦に「もうひと踏ん張り頑張ろう」という奮起を与えたのでした。
花屋絵画
          ▲毘沙門前の花屋さんの姿を描いた画家・桐谷逸夫氏の作品
 
  
◆花屋さんの彩り、忘れません
 
毘沙門前の花屋さんに、103歳の婦人が娘さんの押す車いすに乗ってやってきました。
「私、花屋さんとお友だちなの」
まわりのお客さんたちと楽しそうに会話する高齢の常連さん。パッと花が咲いたような柔らかい空気が、周囲を明るく和ませています。
「あの場所(門前)は、あの人たちだからずっと貸してきた」と話すのは、善國寺住職の嶋田堯嗣さん75。冷岡さんたちとは先代夫婦からのつき合いです。
「私たち家族がここ(善國寺)に来たのは昭和41年。当時すでに花屋で、地方の訛り丸出しで商売していたのを覚えている(笑)
昭和46年に完成した本堂・毘沙門堂の建設工事の際も、先代夫婦が商売できるようにスペースを確保したと嶋田さん。父の先代住職や当時の地域住民たちも、毘沙門前の花屋さんを大切にしてきました。
「でも大変な仕事だから、後継ぎはいないと思っていたけどね。年齢も年齢だし、終日外の仕事で、二人とも体をかなりいじめているんじゃないかな。門前はもう、誰にも貸すことはないでしょう」
新しいビルが次々と建つ一方で、老舗の店が姿を消すなど、時代の波に洗われている神楽坂。芸者さんの人数も今は約30人、料亭は4軒に減りました。神楽坂のいいところは“人のふれあい”。最近、それが希薄になってきたのではないか――。嶋田さんは憂慮しています。
「神楽坂は良い伝統のある街。新旧ほどよく兼ね備えて、これからも街が発展していってほしい」
花屋10  
103日、毘沙門前の花屋さん最後の日がついにやってきました。諸々の雑事で予定より数日延びた閉店日。当日は冷岡さんの家族をはじめ、多くの人が名残を惜しみに訪れました。
「毘沙門さまの春の桜と、お宅の色とりどりの美しいお花。とても素敵でした。忘れません」
「今までお友達のように接してくださって有難う」
「お互いに元気でいましょうね」
いつになく丁寧に、相手を深く思いやって交わされる会話――。数日前には、いつも曾おばあちゃんと一緒に花を買いに来る幼い子が雰囲気を察し、突然泣き出したそうです。
昔からの馴染みという婦人がしみじみ語りました。
「最初、冷岡さんの奥さんに会ったとき、先代のおばあちゃんの娘さんかと思った。あんまりそっくりだったから。それがお嫁さんと聞いて、ほんとにびっくりした」
先代のおばあちゃんのことは、今でも面影が心に浮かぶとその婦人。毘沙門さまと花屋さんはセットの景色。ずっと、いつまでもあるのが当たり前のように感じていたと話します。
「“決まった景色を変えないで!”って駄々をこねても、今度ばかりは叶いません。今はただ、本当にお疲れさまって気持ちでいっぱい」

 その日、冷岡さん夫婦は
21時過ぎまで毘沙門前を掃除しました。水で流し、丹念に掃き清められた空間は、さっきまで本当に、あの賑やかな花屋さんがあったのか疑いたくなるほどのきれいさです。
「長いこと、本当にお世話になりました。感謝の気持ちでいっぱいです。これからもみなさんの健康を、心からお祈りしています」
最後まで感傷的にならず、粛々とすべての仕事を全うした冷岡さん夫婦。二人の表情は満足感にあふれ、凛としていました。 

花屋11
     ▲写真上:閉店日に駆けつけたお嬢さんとお孫さん2人、下左・右: お客さんたちとも記念に



             ➣➣➣     ➢➢➢     ➣➣➣
 
神楽坂は本サイトを運営する「オフィスなかおか」の所在地、いわゆるホームグラウンドです。弊社も、毘沙門前の花屋さんの十数年来の常連客でした。そうした関係もあり実現した今回の企画。取材は半月ほどに及びましたが、回数を重ねるにつれ、その存在の大きさ、地域に張った根の深さを痛感せずにはいられませんでした。
神楽坂とともにあるがまま、泰然と過ごしてきた冷岡さん二代の69年間。それはまるで、一本の太い線をみるようでした。毘沙門前の花屋さんが街に添え続けてきた彩りは、これからも地元の人たちの心から消えることがないでしょう。
毘沙門前の花屋さんが去った後、お店を開いていた一角はやはり空いたままで、なんだか街全体が表情をなくした感じがしています。しかし、有為転変は人の世の常。冷岡さんご夫婦も少し休憩し、身辺整理を終えたら、体に負担をかけない仕事をみつけ再び働きたいそうです。
 
変化が街や人に新たな息吹を運んでくれるはず。神楽坂の街に、そして冷岡さんご夫婦に幸あれ!

花屋12   

(「神楽坂・毘沙門前の花屋さん」おわり/
  
次回は『グラウンド・ゴルフ読本』の著者、細川磐先生が提唱する「エクササイズ・ウォーキング」を紹介!
 

 

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