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認知症最前線~医療・ケア・介護の現場から

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世界の医療現場で初めて普及したアルツハイマー病治療薬「アリセプト」。その画期的な治療薬を開発した杉本八郎教授が去る4月7日、経営支援NPOクラブの会員向け勉強会「NPOサロン」で貴重な体験を語りました。その講演内容を紹介する2回目——。
脳血管性認知症にかかった母を救うべく、不可能とされる認知症治療薬の開発に挑んだ杉本八郎教授。8年の歳月と8億円もの巨費をかけるも、深刻な副作用が判明したことから会社の命令で中止に追い込まれます。しかも、その間に最愛の母を亡くしてしまいました。
救いようのない喪失感と悔しさに苛まれた杉本八郎教授でしたが、母に誓った認知症治療薬を完成させるべく、再び歩み始めます。
今度は部下も引き入れ、ターゲットを脳血管性認知症から、患者数が最も多いアルツハイマー病に変更して研究を開始。様々な模索を経て、治療薬開発のヒントとなる有力な学説や、有望な化合物も発見し、研究チームの活動は会社公認のプロジェクトになります。
しかし、またも超えなければならない壁は何重にも連なるうえ高く、苦難と試練の連続に耐える日々が続くことに。その挙句、思いもよらない部署への異動が——。
今回は世界が驚いた奇跡のアルツハイマー病治療薬、「アリセプト」の誕生までを紹介します。
 
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 ◆有力学説「コリン仮説」をヒントに創薬を再開
 
杉本教授が認知症治療薬の開発に奮闘していた頃、エーザイもまた大きな転機を迎えていました。1982年1月に同社の製薬研究所が茨城県つくば市のつくば学園都市に移転、2万5000坪の広大な敷地に「筑波研究所」を建てました。そのトップとして研究員たちを引っ張ったのが内藤晴夫部長、現在のエーザイ社長です。
「Pressure makes diamonds」(ダイアモンドは強い圧力が創り出す:大きなプレッシャーにより、大きな成果が生まれる)を座右の銘とし、定時の17時に帰社したら「早退」とみなしたという当時の内藤部長。所内の各研究室を競わせ、“筑波発の新薬”の開発に情熱を注ぎました。そうしたモーレツ部長の勢いを反映してか、筑波研究所は活気にあふれ、常に明かりがともる“不夜城”と化していきます。
このような熱い環境下、杉本教授は認知症治療薬の開発に再び挑戦。次に狙うのは、同じ認知症でも患者数が最も多いとされるアルツハイマー病です。そのメカニズムを解明する有力学説も発見し、いよいよリベンジを果たす2回目の挑戦が始まりました。


 
杉本教授 つくば学園都市への民間企業の施設移転はエーザイが最初でした。当時の所内の研究室は、感染症領域の研究を行う「一室」、脳神経領域の「二室」、消化器領域の「三室」、循環器領域の「四室」、炎症・アレルギー領域の「五室」、血液領域の「六室」――の6つで構成され、内藤さんはどこが一番乗りで“筑波生まれの新薬”を開発するか、意図的に競わせました。
こうしたこともあって、各研究室は対抗心むき出しで競いましたが、それが互いを鍛え合う結果となり、研究所全体のレベルアップにつながったのは間違いありません。
ちなみに内藤さんは真夜中によく所内を見まわり、決まってカツサンドを差し入れしてくれました。なぜ、カツサンドなのか? それは当時エーザイが提携していたスイスの製薬大手サンド社、現在のノバルティスですが、同社を意識していたんですね。「将来はサンド社に勝つぞ!」と(笑)。すでにサンド社は世界的な製薬会社で、当時のエーザイはとても及ばなかった。この内藤さんの気概が、エーザイを世界的な企業に育て上げたといっても過言ではないでしょう。
このときの私はというと、脳神経領域を研究する第二室の責任者を務めていました。内藤さんとは誕生日(12月27日)が同じなうえ、ダジャレでウマが合うこともあり、とても仲が良かったです(笑)。
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研究所が移転してからというもの、仕事は以前とは比べものにならないほど激務になりました。もっとも周囲は雑木林や畑ばかりで、遊ぶ場所なんてないから、研究員たちは自然と研究に打ち込むしかなかったのですが(笑)。私にとっても、そうした環境は願ってもないことでした。なぜなら、母と約束した認知症治療薬の開発を早く再開し、研究に集中したかったからです。
 
最初の創薬がとん挫して1年。次に狙ったのは、同じ認知症でもアルツハイマー病の治療薬でした。なぜ、ターゲットを変えたのか? それは認知症の治療薬をつくるからには、患者数が最も多い病気の薬に挑戦したいと思ったからです。
今度は部下3人を引き込み、まずは業務と関係なく自主的に研究を開始しました。そして、様々な模索を経て「コリン仮説」にたどり着きます。
「コリン仮説」とは、1970年代に提唱されたアルツハイマー病のメカニズムを解明する学説です。簡単に説明すると、記憶や自律神経をつかさどる脳内の神経伝達物質「アセチルコリン」(ACh)が減少することで、アルツハイマー病は発生する――というものです。
神経伝達物質は100種類以上ありますが、アルツハイマー病患者の死後の脳を調べたところ、アセチルコリンが異常に少ないことがわかりました。アセチルコリンが減少すると記憶障害を引き起こします。

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 上の図は、シナプス内でアセチルコリンが神経伝達される様子を示したものです。
シナプスとは神経細胞と神経細胞の接合部位のことで、20ナノメートルほどの隙間が空いています。この隙間の情報伝達をアセチルコリンが担っているわけです。つまり、前シナプスでアセチルコリンがつくられ、後シナプスに達することで情報が伝わっていきます。
そしてシナプスの間には、アセチルコリンを酢酸とコリンに分解する「アセチルコリンエステラーゼ」(AChE)が存在します。この酵素によって、脳内のアエチルコリンの量が調節されているのです。
アルツハイマー病の患者はこのバランスが崩れ、アセチルコリンが激減することで発症する――とコリン仮説は論じます。それなら逆に、「アセチルコリンを増やせば記憶障害の症状が改善するのではないか」と考えました。
アセチルコリンを増やすには、それを分解するアセチルコリンエステラーゼの働きを抑えればいい。このような方針のもと、アセチルコリンエステラーゼの作用を阻害する薬の開発に向け、化合物の合成に取り掛かりました。
 
 
 
 ◆ついに“世界最強の化合物”を合成!   しかし…
 
アセチルコリンを分解するアセチルコリンエステラーゼの阻害薬としては、以前から「フィゾスチグミン」と「タクリン」がその効用を示すことが知られていました。
フィゾスチグミンはアフリカ原産のカラバルマメ(マメ科のつる性多年草)から単離された天然の有機化合物で、1864年に発見されました。痙攣を鎮めたり、瞳孔を縮めたりする薬効もあります。
一方、タクリンは1931年、もともとは抗菌剤開発のために合成された化合物です。その後、アセチルコリンエステラーゼの阻害作用が認められました。
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フィゾスチグミン、タクリンとも、すでに小スケールでアルツハイマー病患者に試験的に投与されていましたが、前者はすぐに分解されてしまう性質があり、後者は肝臓に対する副作用が大きいため、当時は開発に至りませんでした。
そのため「コリン仮説」は実現性の乏しい過去の理論とされていましたが、杉本教授はあえてこの学説に基づき、合成が簡単なタクリンをシード化合物に研究を展開していきます。


 
杉本教授 不可能とされている薬の開発に挑むわけです。常識通りのやり方で成功するはずがありません。これまで誰もやらなかったことをやって、初めて活路が開く。そう信じて合成に取り掛かりました。
しかし、予想していたとはいえ、やはりタクリンが持つ肝機能障害の副作用を解決できない。いろいろ試してみましたが、出来上がった化合物はどれも毒性が強いんですね。最初は「どうにかなるだろう」と楽観していたのですが、さすがに参りました。部下の研究員たちも「杉本さん、やっぱりコリン仮説はダメだ」って、みんな意気消沈してね。チーム内に重苦しい空気が漂いました。
 
そんなある日、別グループの研究仲間が「抗脂血症の研究で合成したシード化合物が、もしかしたらアセチルコリンを増やすかもしれない」と教えてくれたんです。さっそく、その化合物を調べてみると、わずかながらアセチルコリンを分解するアセチルコリンエステラーゼの阻害作用がある。「これはいける! 」と確信し、会社側に直談判して、この研究を正式なプロジェクトとして認めてもらいました。
やっと掴んだチャンスです。目指すは、新しくみつけたシード化合物を合成展開し、さらにその効果を高めること。とにかく、たくさん化合物をつくれば当たる確率も上がると考え、私は部下たちに「君たちは21時前に帰ったらダメだ。土日も研究室に来て頑張れ!」と発破をかけました。
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 研究はもちろん苦難の連続で、成果がなかなか出ない。1年が経ち、阻害作用が70倍に上がる化合物がやっとできましたが、ラットに投与してもなぜか効かない。いろいろ原因を調べてみたら、シード化合物(前述の抗脂血症の研究で合成した化合物)で使っていた分解酵素が、電気ウナギからとったものだったんですね。哺乳類のラットの脳からとった酵素に替えると、効果が40分の1まで低下してしまう。課題がわかり、以降はラットの酵素に切り替えて研究しました。
しかし、その後も明るい兆しがまったくみえない状況が続き、なかなか成果を挙げられない。所内での風当たりも強まり、部下たちはストレスをためていきました。この時期が一番苦しかったですね。
そして研究開始から3年目、ついにこれまでにない薬効を示す化合物ができました。阻害作用がシード化合物の2万倍以上。“世界最強”です。この化合物に至るまで、約700種類の化合物をつくりました。ラットを使った実験でも効果が確認され、「これはすごい!」とみんな沸き立ちました。あとは人に投与する臨床試験で、確かな薬効を確認するだけです。
 
ところが、臨床開発部から「待った!」が掛かりました。ラットより大きい犬に投与したところ、肝臓で98%分解されることが判明したのです。2%しか利用できなかったら、効かない可能性が高い。そればかりか、強い副作用も起こす危険もありました。
問題点を改善して、なんとか臨床試験に入りたい。私は何度も頼み込みましたが、臨床サイドの猛反対にあい、ついに会社からストップの厳命が下ってしまいました。
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 ◆苦節4年にして光明差すも、新たな試練が
 
1度ならず、2度までも会社からストップが掛かり、中止を余儀なくされた認知症治療薬の開発。研究チームも解散となってしまいました。
それでも、杉本教授はあきらめきれずにいました。その後も折に触れ、会社側にプロジェクトの再開を訴え掛けます。しかし、その声に耳を傾ける気配はありません。
このままフェイドアウトしていくのか——。
そう思われたとき、信じられないことが起こりました。なんと1年間の期限付きで研究の許可が下りたのです。ゴーサインを出したのは、認知症治療薬の開発に理解を示していた内藤部長でした。
さっそく杉本教授はかつてのメンバーなどに声をかけ、研究チームを再結成します。克服すべき課題は明白。“世界最強”と大きな期待を寄せた化合物を改良し、生体利用率を上げること。メンバーは総力を挙げ最後の挑戦に臨み、やがて光明が差します。そのとき、またしても杉本教授に思いもよらない試練が……。


 
杉本教授 チームのみんなを叱咤激励し、さんざん無理強いしてきたプロジェクトです。有望な化合物もみつかり、易々と引き下がるわけにはいきません。中止命令が出てからも、何度となく会社側と掛け合い、研究再開を訴え続けました。「何がなんでも、絶対に成功させてやる!」と、まさに研究者の執念に燃えていましたね。その熱い気持ちに内藤さんが応えてくれた。1年間の期限で研究を許可してくれたんです。本当に有難かったですね。
 
化合物の改善点は明白です。肝臓で98%分解されてしまうなら、肝臓で分解されないものをつくればいい。そこだけにフォーカスを絞ってバリバリ研究しました。化合物の構成を少しずつ変えては、薬の生体利用率の変化を調べる。それこそ根気強く、何度も何度も。あまりにも多い合成・実験の繰り返しに、メンバーは心身ともにヘトヘトになって怒り出す者もいました。しかし、時間は1年と限られています。苦しくても、猛烈に突き進むしかありませんでした。
こうして研究室にこもりきりの日々を過ごし、ようやく課題をクリアして完成したのが「ドネペジル」(学術用語)、すなわち『アリセプト』(エーザイの商標)です。研究期間はトータル4年に及び、合成した化合物の数は実に1000種類に達していました。
アリセプトの臨床試験は1989年1月に国内で始まり、2年後の1991年7月には米国でも開始。第1相試験は、日本で失敗したものの米国で成功し、以降、米国が先行する形で進んでいきます。
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 このようにアリセプトの臨床試験の状況を見守っていたある日、突然上司に呼ばれ、本社人事部への異動が告げられました。
耳を疑いました。私には「デタントール」(第1回特集参照)を開発した実績があります。それにアリセプトが成功すれば世界初の快挙です。その私がまさか、人事部へ左遷されるとは……。
ふつふつと怒りがこみあげ、「僕にも僕の人生がある!」と上司に怒鳴り、大喧嘩して帰ってしまいました。
 当時、内藤さんは本社に戻って専務をしていて、さっそく電話がきました。「八ちゃん、最後まで面倒見るから、意欲を落とさないで頑張ってくれ」と。
当時、私は会社の幹部でしたから、これ以上抵抗するには首をかけなければならない。そのとき、ちょっと頭をよぎったのは、まだ家の銀行ローンが残っていたんですね。そういう事情もあって、仕方なく、本当に泣く泣く本社の人事部に異動しました。
それでも、やっぱり研究がやりたくて数社ほど中途採用の面接を受けました。だけど、どこも採用されなかったんですね。当然そうでしょう。私の履歴書の学歴は「高卒」です。勤務しながら通った大学は夜間部、年齢もすでに40を過ぎていた。なおかつ、当時は書いた論文が1本もなかったんです。こんな経歴では、どこも研究者として採用してくれるはずがありません。
もっとも、もし採用されていたらエーザイを去っていたので、今日の私はなかった。ある意味、採用されなくてよかったです(笑)。
 
人事部に異動してラッキーだったこともあるんですよ。人事部の業務といえば採用なので、北海道から九州まで大学の薬学部を訪問して、大学の先生と研究の話をし、その後一緒に食事やカラオケなんかに行ったり……もちろん、今はできませんよ(笑)。このように、研究所時代とは比べものにならないほど交際費が使えて、楽しみながら全国に薬学関係の人脈を構築できました。
また、内勤のときは定時で上がれるので、17時から図書館にこもって、論文を5本書いたんですね。そのとき、たまたま知り合いの広島大学の教授が「うちで学位を取ったら?」と勧めてくれて、これらの論文で同大の総合薬学科の博士号を取ることができました。こうして、私は大学教授になることができたんです。博士号がないと教授にはなれません。
ということで、最初は不本意でしたが、人事部へ異動したことで人脈が全国に広がり、論文も書いて教授になることができた。そういう意味で、この異動は本当にラッキーだったと思っています。人生、何が起こるかわかりませんね(笑)。
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 ◆念ずれば、花ひらく
 
研究チームが一丸となり、苦心の末に開発した「アリセプト」はその後も、米国で臨床試験が順調に進んでいきました。第2相試験、第3相試験とクリアし、アセチルコリンエステラーゼの分解作用を阻害する確かな効果を確認。そして1996年11月、ついに米食品医薬品局(FDA)から承認がおります。
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当時、認知症が大きな社会問題となっていた米国では驚きが広がりました。『アルツハイマー病の症状と戦うための薬』――現地のマスコミは、この世界的な快挙を大々的に報道します。
翌97年2月5日には全米での販売開始を記念して、アトランタ市でアリセプトの新発売大会が開催されました。当日はエーザイや、販売提携先であるファイザーの営業担当者を中心に2500人以上が参加。研究チームの代表がスピーチの壇上に上がると、割れんばかりの拍手と歓声が巻き起こります。会場の熱烈な祝福を受けていたのは、人事部へ異動したはずの杉本教授でした。


 
杉本教授 驚きました。アリセプトの新発売大会で、私が研究チームを代表してスピーチをすることになったのです。すでに人事部に異動していた私が……まるで夢のようでした。
突然異動を告げられたとき、“夢は絶たれた”と失意のどん底に落ちましたが、気持ちを切り替え、人事の業務を楽しみながら自分磨きに努めた。そんな前向きな気持ちも幸運を呼んだのかもしれません。
その日、スピーチのため壇上に上がると、来場した2500人もの人たちのスタンディングオベーションが起こりました。みんな一斉に立ち上がり、床を踏み鳴らしながら大きな拍手と歓声で私を迎えてくれている。そんな状態が5分ぐらい続き、なかなかスピーチに入れませんでした。生涯忘れられない、感激の瞬間でした。ここから私の運命が劇的に変わりましたね。
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帰国後まもなく、筑波研究所の副所長として研究現場への復帰が叶いました。新発売大会で、私の名刺の肩書きが人事部だったことに、周囲の人がみんな驚いていたという話を上司が聞き、気を利かせてくれたのでしょう。
そして1998年にアリセプトの創薬が医薬品分野における革新的・先端的研究と認められ、“薬のノーベル賞”とも称される「英国ガリアン賞特別賞」をもらいます。2002年には、天皇陛下から恩賜発明賞もいただきました。同賞は学術分野における日本学士院恩賜賞、芸術分野における日本芸術院恩賜賞に対する技術(発明)分野の恩賜賞で、(公社)発明協会が主催する全国発明表彰の最高賞です。薬での受賞は初めてでした。ほかにも数々の賞を得て、私は今、大学教授としてアルツハイマー病研究の第一線を走り続けることができています。
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アリセプトは現在世界100カ国で販売されていて、年間3000億円の売上高を記録するブロックバスター(大型薬)となりました。最初の研究で約8億円の損害を会社に与えてしまいましたが、十分元を返していますよね(笑)。
振り返れば、アリセプトは日本での臨床試験で躓いたけど、米国での試験が順調に推移し、花を咲かせることができた。このようなことを思うと、アリセプトはつくづく偶然を味方につける、幸運に恵まれたテーマだったと思います。でも、そのような幸運は研究チームのみんなのあきらめない強い気持ち、執念が呼んだに違いありません。
「念ずれば花ひらく」(坂村真民)。アリセプトの研究開発は、母がいつも口にしていた詩をまさに実体験した出来事でした。
「アルツハイマー病治療薬開発の夢を追って②」おわり、同③につづく。次回は杉本教授が認知症にならないための予防法を伝授



gazou npo  
   

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