認知症最前線~医療・ケア・介護の現場から
- 2021/06/02
- 10:30
世界で5000万人もの患者がいるとされる認知症。世界保健機関(WHO)によると、年間1000万人近くが新たに発症するとの報告もあり、約3秒に一人、世界のどこかで認知症になっている計算になります。そんな認知症の中で、もっとも多いのがアルツハイマー型認知症。脳が委縮して、認知機能が失われる進行性の病気です。記憶や思考力が失われていき、やがて日常生活が困難を極めていく――。現代の医学では根本的な治癒は難しく、患者や家族の苦悩は計り知れません。
しかし、進行を遅らせる薬はあります。その一つが「アリセプト」。世界の医療現場で普及した初めてのアルツハイマー病治療薬です。
開発者はエーザイ(株)の研究員だった同志社大学生命医科学研究科の杉本八郎教授。成功率2万分の1以下といわれる新薬開発で、アリセプトを含む2つの薬を生み出し、1998年に“薬のノーベル賞”とも称される英国ガリアン賞特別賞、2002年には恩賜発明賞も受賞しました。現在も大学教授として活躍する一方、ベンチャー企業グリーン・テック(株)で創薬に勤しんでいます。
その杉本教授が去る4月7日、本サイトでお馴染みの「経営支援NPOクラブ」の会員向け勉強会「NPOサロン」に招かれ、『アルツハイマー病治療薬開発の夢を追って』というテーマで講演しました。当日はオンラインで行われ、NPOクラブの会員以外にも一般から多くの人が参加。輝かしい実績の陰にあった少年・青年期の逆境と苦悩、認知症薬の開発を志すきっかけとなった母との絆、度重なる失敗や会社からの開発中止命令をはねつけ、アリセプトの創薬に結びつけた情熱など、貴重なエピソードの数々が大きな反響を呼びました。
今回は経営支援NPOクラブの協力を得て、杉本教授の講演を特別に本サイトで再現します。
<全3回/第1回 協力:認定特定非営利活動法人 経営支援NPOクラブ>
第一線を離れた企業OB等が、ボランティア精神で中小・地方企業の経営を支援するNPO団体。
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◆アリセプト開発を成功に導いたのは「根拠のない自信」?!
アルツハイマー型認知症の進行を抑制する塩酸ドネペジル、商品名「アリセプト」。世界の医療現場で普及した初めての認知症治療薬です。1996年に米国でいち早く承認され、1999年には日本でも販売を開始、現在約100カ国で認可されています。この画期的な新薬の開発に心血を注いだのが、当時エーザイの研究員だった杉本八郎教授です。
“不治の病”ともいわれる認知症。なかでも発症率が高いアルツハイマー病はかつて、医師が診断しても治療法がないため、「ゴー・ホーム・ディジーズ(家に帰るほかない病気)」と揶揄されていました。それだけにアリセプトの誕生は世界に大きな衝撃を与え、「我々はやっと認知症と戦う武器を手にできた」と歓喜に湧きました。
この快挙により、杉本教授は1998年に英ガリアン賞を始めとする数々の輝かしい賞を受賞しますが、自身について「けっして大人物ではない」と語ります。性格はいたって明るく、冗談好き。常にダジャレを飛ばす。学校の勉強は苦手で、エーザイ入社時の学歴は高卒——。
アリセプトの開発も失敗の連続で、会社から開発中止の厳命が2度も出るなど、まさに“茨(いばら)”の道でした。このような困難を乗り越えアリセプトを開発できたのは、「根拠のない自信があったから」と杉本教授は述懐します。はたして「根拠のない自信」とは?
念ずれば花ひらく
詩人 坂村真民
杉本教授 坂村真民(さかむらしんみん)さんをご存知ですか? 私が尊敬する国民的詩人です。私は坂村さんの詩集をたくさん持っていますが、なかでもこの詩が一番大好きです。
苦しいとき、母がいつも口にしていたこの詩を、私もいつの頃からか唱えるようになりました。そして、そのたびに私の花が一つ、また一つと、不思議にひらいていきました。
思っていること(念じていること)を口に出そう。すると、それが形になって現れてくる。実際に経験したことのある方は、きっと多いのではないでしょうか。私も経験しました。まさに、この詩の通りだと思っています。とても大好きな詩です。
また、アップルの創業者でMacintosh(マッキントッシュ)の開発を主導したスティーブ・ジョブスさんの言葉、「Stay hungry, stay foolish(ハングリーであれ、愚かであれ)」も非常に感銘を受けました。彼が亡くなるちょっと前、スタンフォード大学で学生に講演したときの最後のフレーズです(※2005年6月、同大の卒業式にて)。
「ハングリーであれ、愚かであれ」
確かに物事を成功させるには、ハングリー精神が非常に大事です。だけど、西洋人が「愚かであれ」ということは、あまりいわないんじゃないでしょうか。
なぜ、彼からこのような言葉が出たかというと、彼は日本が大好きなんですね。京都の大徳寺で座禅もしています。その座禅の中の言葉で、「大愚(たいぐ)」という言葉があるのをご存知ですか? 「大きな愚か」……彼はこの言葉を知っていたと思うんです。
「愚か」というのは、私流にいうなら「根拠のない自信」です。
「根拠のある自信」はロジックに倒されますが、「根拠のない自信」はロジックじゃないんですよ。だから、論理的なディスカッションで負けることがない。なぜか? それはパッション(情熱)だからです。
「おれはやるぞ!」という気持ち。これが大切です。
そして、私みたいのが「愚か」なんです。アリセプトの開発は、私が「愚か」だったから成功したんです。
スティーブジョブスさんは聡明な方でしたが、私はというと、少年時代は小説や漫画ばかりで勉強ができなかった。特に化学や数学、物理がまるでダメでした(笑)。
また、家がとても貧しかったんですね。私は9人兄弟の8番目だからエイトマン(八郎)。わかりますか? 昔の漫画のヒーローです(笑)。
母は大変苦労して、私たち9人の子どもを育ててくれました。父があてにならず、給料をもらっても全部飲んじゃうんで、母の苦労は並大抵ではなかったですね。母は、昼は工場で働いて、夜は内職して……それでも毎月借金していました。
戦後の昭和20年代で、食べ物がなく、毎朝母が一升のおコメを炊いて、お弁当をつくってくれるんだけど、9人兄弟だから足りないんですよ。なので、弁当なしで学校に行くのが度々だった。雨が降ると、9人分の傘なんてないから、いつも傘なしで登校していましたね。
いま振り返ると、あのような“ハングリー”な時代があったから、どんな困難にも耐えられたんだと思います。
よくいいますよね、「逆境は最大の教育者だ」と。“ハングリー”な境遇というのは、心の成長に必要だと私は考えます。みなさんは、もし逆境に直面したら「ありがとう」といえますか?
私は将来、もし、なれるものなら詩人か小説家になりたかった。それが、自分の性格に一番あっていると感じていたからです。高村光太郎の『智恵子抄』に憧れたり、宮沢賢治の“雨ニモマケズ”の人間になりたいと真剣に思ったり……。小説家になるために、トルストイや夏目漱石の全集なども読みあさりました。
でも、大学にいくお金なんて、とてもなかった。母も「八郎、工業高校を出れば、すぐに仕事に就けるから」というので、工業高校に入りました。だから私、エーザイは「高卒」の学歴で入ったんですよ(笑)。
◆「高卒」の壁を乗り越え、自力で掴んだ転機
母の勧めもあり、すぐに仕事に就くことを考えて都立化学工業高校に進学した杉本教授。3年生のとき、学校の求人欄で「エーザイ」をみつけます。カタカナの社名がスマートで好印象を持ちました。
当時のエーザイは社員が50人にも満たないベンチャー企業。大企業に入ると大卒の優秀な同期に埋もれ、自分が活躍するチャンスはないかもしれない——。そのような思いも背中を押し、エーザイ志望を決意、見事内定を勝ち取ります。
しかし、現実はそう甘くありませんでした。入社後、思惑とかけ離れた現実と向き合い、打ちのめされる日々。一時期、仕事以外のことに熱中しますが、やがて気持ちを改めて本業にもどり、働きながら夜間大学にも通う“化学漬け”の毎日を送るようになります。
そして、研究者として大きな転機が訪れました。
杉本教授 エーザイに入ったとき、はじめは研究員で採用されたと思っていました。ところが実際はそうではなくて、高校卒業の社員は「研究補助員」だったんです。つまり、大卒の研究員たちのお手伝い(笑)。確かに高校卒業程度の知識では、薬の研究は難しいです。
しかし、何年経っても研究補助員から研究員になれなかったので、よく文句をいい、上司とぶつかりました。そんなこともあって、なかなか研究テーマを任せてもらえない。不満がどんどん高まっていき、そのはけ口で、やがて労働組合の活動に熱中するようになりました。
当時のエーザイは組合活動が盛んで、私もかなりヤンチャしました(笑)。そのうち、周囲から将来の組合幹部候補として期待されるようになりましたが、やはり組合活動はイデオロギーがないと難しいんですね。私にはそのような理念なんかありません。なので組合活動に見切りをつけ、途中から高校時代にやっていた剣道に打ち込むようになりました。エーザイに剣道部をつくったんです。
それからは定時が来ると、すぐ屋上へ直行して稽古。当時は道場がなかったので、研究所の屋上が練習場所でした。実業団の大会にも出場して、日本武道館で試合をしたこともあるんですよ。ちなみに、剣道は今も続けています。エーザイを定年退職する2年前には薬業剣道連盟を立ち上げました。現在も会長を務めていて、毎年100人ほどが集まる大会を開催しています。
このように私の20代前半は、組合活動や剣道、それと読書三昧でした。しかし、剣道に打ち込むうちに、仕事への向き合い方も次第に改まり、やはり専門知識を学ぼうと中央大学理工学部の二部に入りました。それからは働きながら大学に通う、まさに朝から晩まで“化学漬け”の日々。とても忙しくて大変でしたが、これまで経験したことのない充実感を味わうことができましたね。
そんな私に転機が訪れました。26歳のとき、初めて新薬開発の主担当を任されたのです。テーマは血圧降下剤の開発。自ら提案しました。
新薬の開発は、既知の物質を組み合わせて、薬効のある新物質を生み出す作業。つまり、「合成」という作業をひたすら繰り返します。そして、新薬の種となる「シード化合物」を合成するわけですが、これが大変難しくて、なかなか上手くいかない。
研究に行き詰っていると先輩がヒントをくれて、米国の製薬会社ファイザー社の降圧剤「プラゾシン」に注目しました。すると、プラゾシンの化学構造は非常に完成されていて、これを改良したらいけると確信しました。
それからは自分の直観を信じて合成を繰り返し、ついに血圧降下剤「塩酸ブナゾシン」を完成させることができたのです。
それからは自分の直観を信じて合成を繰り返し、ついに血圧降下剤「塩酸ブナゾシン」を完成させることができたのです。
ちなみに、ブナゾシンの商品名は「デタントール」です。なぜかというと、研究に着手してから発売までずいぶん時間がかかり、やっと出たから「デタントール」(笑)。
また、完成した当時の1970年代、アメリカとソ連の間で緊張が高まっていました。そのような政治的緊張を緩和することを、フランス語で「デタント」といいます。ブナゾシンは血管の緊張をとるので、「デタントール」という名前にしたんです。面白いネーミングだと思っています(笑)。
デタントールはスイスのサンド社(※現ノバルティス:国際的な製薬・バイオテクノロジー企業)と販売提携を結び、エーザイが初めて海外展開した記念すべき自社開発薬となりました。当時、私は30代。「自分みたいな者でも新薬が開発できる」という自信をもつこともでき、ある意味で研究者の転機となった懐かしい商品です。
◆母を救いたい! 認知症治療薬の研究を開始
エーザイの記念すべき海外展開第一号医薬品となった「デタントール」。その開発成功により、杉本教授は社内でも一目置かれる存在となりました。
ノンキャリアでもやっていける!
入社以来甘んじてきた不本意な境遇を自らの力で切り拓き、確かな手ごたえを胸に、これからどんどん活躍していこうと意欲を燃やします。
ノンキャリアでもやっていける!
入社以来甘んじてきた不本意な境遇を自らの力で切り拓き、確かな手ごたえを胸に、これからどんどん活躍していこうと意欲を燃やします。
しかし、前途洋々たる未来を描き始めた矢先、思いもしない悲劇が起こりました。最愛の母が認知症にかかってしまったのです。
なんとしても母を救いたい。その一心で、当時循環器系の医薬品がメインだったエーザイにおいて、本流から逸れる形で脳神経系の治療薬開発に没頭するようになりました。
毎日残業を繰り返し、のめり込むように合成を重ねるも失敗ばかり。不安と焦りばかりが募っていきます。
毎日残業を繰り返し、のめり込むように合成を重ねるも失敗ばかり。不安と焦りばかりが募っていきます。
アリセプトの開発に至る苦難と試練の連続が始まりました。
9人の子どもを抱え、朝から晩まで働き詰めだった母。幼い頃から苦労する姿をずっとみて育ってきたから、いつか楽をさせてあげようと心に誓っていました。そして、やっと親孝行ができるようになったとき、母は私の顔を忘れてしまったのです。まさか、自分の母親が息子の顔を忘れるとは思いもしませんでした。非常に悔しかったですね。本当に悲しかった……。
でも、私は製薬会社の研究所に勤めています。それなら自分が母の病気を治す薬をつくろうと思ったのが、アリセプト開発の原点です。
母が患っていたのはアルツハイマー病ではなく、脳血管性の認知症でした。脳出血や脳梗塞など脳の疾患で血管が詰まり、周りの神経細胞が機能しなくなることで起こる病気です。
さっそく脳血管性認知症の治療薬開発に取り掛かりましたが、脳神経の分野は私の専門外です。また、当時のエーザイのメイン製品は循環器系の医薬品で、研究所内でもこの分野を研究する人が大半でした。そのため、認知症治療薬の開発は軽くみられ、成功に懐疑的な見方も多く、薬効を調べる薬理チームの協力を得るのも大変でした。
そこで外部に力を求め、埼玉医科大学神経内科の島津邦男先生と共同研究することにしました。具体的には、私がエーザイの研究所で血管に作用する化合物を合成し、マウスなどに投与して、見込みのありそうなものを島津先生の研究室に持ち込む。そこで、より人間に近いサルを使って脳の血流量をみてもらう——という流れで取り組み始めました。
それからは毎週末、合成した化合物を持って埼玉医科大に通い続けましたが、数年経っても大きな進展がなく、不安と焦りが募るばかり。このように苦戦が続く最中、ついに恐れていたことが起きました。母が亡くなってしまったのです。
間に合いませんでした。救いようのない喪失感と、悔しさでいっぱいでした。
でも、認知症治療薬の開発によって世の中に貢献することを亡き母に誓い、再び研究に没頭しました。そして、母の死から2年後、ようやく有望な化合物を合成しました。サルに投与したら、脳血流の顕著な増加作用がみられたのです。「これはすごい!」と手応えを感じ、この化合物に「E718」というコードネームを付けて、人に投与する臨床試験に入りました。
でも、認知症治療薬の開発によって世の中に貢献することを亡き母に誓い、再び研究に没頭しました。そして、母の死から2年後、ようやく有望な化合物を合成しました。サルに投与したら、脳血流の顕著な増加作用がみられたのです。「これはすごい!」と手応えを感じ、この化合物に「E718」というコードネームを付けて、人に投与する臨床試験に入りました。
ところが第1相試験を行った結果、思わぬ副作用が判明しました。脳の血流を増やす代わりに、肝機能障害を引き起こしかねないことがわかったのです。肝臓の負担は大きく、無視できないレベルでした。
島津先生は「脳血管障害の治療薬は高齢者が使うものだから、肝機能障害を超す可能性のあるものはよくない」といい、会社からも開発中止命令が出て、残念ながら「E718」は終結となりました。
ここに至るまでに費やした研究期間は8年、費用は8億円。それを私、「八郎」がやったんです。
当時の上司から「八郎が8年かけて8億円で“トリプルエイト”」、「八ちゃん、8億円返してくれ」などといわれました。8億円なんて返せるわけ、ないですよね(笑)。
当時の上司から「八郎が8年かけて8億円で“トリプルエイト”」、「八ちゃん、8億円返してくれ」などといわれました。8億円なんて返せるわけ、ないですよね(笑)。
こうして最初の認知症治療薬の開発は失敗に終わり、会社にも巨額な損失を被らせてしまいました。それでも私はまったくあきらめておらず、母に誓った認知症治療薬の開発をなんとしても完成させようと、さまざまな可能性を模索し続けていたのです。
(「アルツハイマー病治療薬開発の夢を追って①」おわり。②につづく)