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感染症で辿る日本史

感染症<序>0
 疫病が「感染症」になるまでを辿りながら、日本人の“恐れ”の変化を考察する項の続き。今回は疫病に代わり、「伝染病」と呼ばれ始める江戸時代後期から、「感染症」という呼称が一般的になった現代までを眺めていきます。
西洋医学の導入で飛躍的に進歩した近代日本の医療。永年の脅威だった天然痘も、西洋で確立された「種痘」の普及で予防できるようになりました。しかし、新たに未知の病「コレラ」が上陸し、日本の歴史を大きく動かしていくことになります。
衛生意識の芽生えと防疫の制度化、病原体研究の進展と抗生物質の普及、現代医学・医療技術に対する過信や慢心、油断から感染拡大を招いた新型コロナウイルス――。
困難な状況にある“今”と真摯に向き合い、乗り越えていくための心構えを先人の足跡から模索しましょう。
 
 
 
(3)疫病から「感染症」へ~日本人の“恐れ”の変化②
 
「伝染病」の登場と「種痘」の普及

 西洋医学が伝わり、日本の医学も飛躍的に進歩した江戸時代後期、「疫病」に代わって「伝染病」という呼称が使われるようになります。疫病が人から人へ「伝染」する見方を日本で最初に唱えたのは甲斐国(山梨県)出身の医師、橋本伯寿(はくじゅ)でした。
医者の家に生まれた伯寿は、漢方を学んだのち長崎に遊学、最新の西洋医学を修得し、文化7(1810)年に『断毒論』(だんどくろん)を著します。その内容は、天然痘や麻疹(ましん)、梅毒、疥癬(かいせん)を異国からの伝染病と断じ、当時主流だった漢方医たちの「胎毒論」(たいどくろん:人が生まれながらに持つ体内の毒素が病因という考え方)を真っ向から否定するものでした。
また同書で伯寿は、接触や食べ物を介した感染など日常生活を戒め、消毒を励行。さらに感染者の“隔離”による予防対策も提唱し、幕府に法制化を促そうと甲府勤番支配役所に請願書を出します。しかし、西洋医学への偏見や誤解が根強い当時にあって、伯寿の考えはまったく受け入れてもらえず、そればかりか訴状で幕府が設けた医学館の学説を批判したことから、『断毒論』の版木を一時押収されてしまいます。
その後、西洋医学に対する人々の認識が一変するのは、欧州で確立されていた天然痘ワクチンの予防接種、「種痘」(しゅとう)が日本で普及し始めてからでした。日本で種痘の本格的な普及に尽力したのは、福沢諭吉などを輩出した大阪の蘭学塾「適々斎塾(てきてきさいじゅく、適塾)」を主宰する緒方洪庵です。
嘉永2(1849)年、洪庵は大阪に「除痘館」(じょとうかん)を創設して種痘を開始。まだ西洋医学に対する悪評が渦巻く中、それに屈することなく種痘の普及に努め、やがて西日本を中心に着実に広がっていきました。
その予防効果が明らかになると、幕府の西洋医学に対する姿勢はようやく軟化し、安政5(1858)年、除痘館を日本で初めて幕府公認の種痘所として認めます。そして同年、江戸の蘭方医たちが神田お玉ヶ池に種痘所を開設する際、幕府はすぐに許可しました。お玉ヶ池種痘所はのちに幕府直轄となり、「西洋医学所」、「医学所」と変遷して現在の東京大学医学部になります。
こうして、人類の永年の脅威だった天然痘はかなりの確率で予防できるようになりました。しかし一方で、それと入れ替わるように、日本人にとってほぼ未知の病が出現します。「コレラ」です。
 
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猛威を振るうコレラ、攘夷思想高揚の一因に

 日本で初めてコレラが流行したのは文政5(1822)年のこと。対馬~下関ルートでコレラ菌が上陸し、九州、四国、近畿と広がって、このときは現在の静岡県沼津市あたりで止まりました。幕府の官医たちは事前にオランダ商館から得た情報で、流行病が「コレラ(当て字で「酷烈辣」)であることを知っていました。しかし、発病の原因は不明で、まったく対処できなかったと記録されています。
元気な人でも突然かかり、2~3日であっけなく死んでいくため、人々は謎の病を「コロリ」(当て字で「虎狼痢」:コロリと人が死ぬのと、病名のコレラをかけたもの)と呼んで恐れました。
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 2回目の流行は36年後、奇しくも幕府が西洋医学に理解を示し、種痘を公認した安政5年に起きます。長崎に入港したアメリカ軍艦ミシシッピ号の乗組員がコレラ菌を持ち込み、東海道を通って江戸から函館まで拡大、日本全国に猛威を振るいました。
この年の8月、幕府は来日中のフランス軍艦からコレラに関する意見書をもらい、それを参考に予防法や対処法を記した御触書を各地の奉行所を通じて配布します。そして9月には、困窮者支援のために52万人分の米(代金換算で6万両ほど)も放出しました。
洪庵もまた、西洋医学書からコレラ治療法を抜粋した『虎狼痢治準』(ころりちじゅん)を数日で書き上げ、医師仲間に無料で配ったことはよく知られています。
しかし、このときの流行で命を落とした人は江戸だけで10万人とも、26万人ともいわれ、火葬場は連日混雑を極めました。
その後も、文久2(1862)年に3回目の大規模な流行が発生、患者は全国で56万人に上り、江戸の死者だけで7万3000人に達しました。
ときは幕末。嘉永6(1853)年にペリーが浦賀に来航し、翌年には日米和親条約が締結されて鎖国が終わり、異国人との交流が飛躍的に増えたタイミングでした。自然、コレラは黒船や異国人がもたらしたと人々は認識し、その怨恨はやがて攘夷思想が高まる一因になります。 
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コレラ流行をきっかけに進んだ近代日本の防疫制度

 もともとインドのガンジス川下流の風土病だったコレラ。その急で激しい症状から世界へ広まるのが遅かったにも関わらず、「国際伝染病の花形」といわれています。また蔓延した国や地域の人々に、清潔な環境や予防を心がけさせるきっかけに度々なることから、「衛生の母」とも呼ばれるそうです。
日本においてもコレラの流行は、明治維新という歴史を一転させる大きなエネルギーを誘発したほか、近代日本人に衛生意識を持たせ、感染防止のための社会・制度改革を促す大きな契機となりました。
明治10(1877)年、維新後初となる大規模なコレラの流行が起きます。このときは、2月から9月にかけて勃発した西南戦争の戦線でコレラが発生し、帰還兵によって全国に広まりました。
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これに対し明治政府は、同年8月に「コレラ予防心得」を公布。同法には検疫からコレラ発生時の届け出、埋葬方法まで詳細に規定されており、以降、我が国の伝染病法のお手本となっていきます。
しかし9月、横浜でも輸入品からの感染でコレラが発生し、流行に拍車を掛けました。この年のコレラの死亡者は約1万4000人に上り、政府は伝染拡大を防ぐため全国に避病院を設置して、患者の収容・隔離を進めるようになります。
明治12(1879)年は、コレラの感染者が約16万人、死亡者が約10万人に上る日本史上稀にみるコレラ流行年となりました。このときも政府は同年6月に「コレラ予防仮規則」を公布。そして翌年7月には「伝染病予防規則」、9月には同法令の付属法規「伝染病予防心得書」と立て続けに発します。
伝染病予防規則では、予防方法として清潔法、摂生法、隔離法、消毒法の4つを挙げ、法定伝染病として「コレラ」、「赤痢」、「腸チフス」、「痘瘡」、「発疹チフス」、「猩紅熱」(しょうこうねつ)を規定しました。この規則はその後、明治30(1897)年4月制定の「伝染病予防法」につながります。同予防法の法定伝染病は、先の6種に「ジフテリア」、「パラチフス」、「流行性脳脊髄膜炎」、「ペスト」を加えた10種としました。
伝染病予防法は、伝染病の予防と患者への適切な医療の普及により、「個人的にも社会的にも害が及ぶのを防ぎ、もって公共の福祉を増進する」ことを目的に制定されました。
同予防法で特に注目されるのは、人々が群集することを制限・禁止したり、患者の隔離を目的とした伝染病院や隔離病舎の設立を市町村に義務づけたりした点です。このことから、海外からの病原体侵入を防ぐことよりも、国内における感染源の封じ込めに主眼を置いた法律であることが読み取れるでしょう。
伝染病予防法は平成10(1998)年の「感染症法」制定・公布まで、実に100年以上続き(平成11<1999>年4月廃止)、この間、やがて人権を無視した感染者の隔離対策が推し進められるようになります。
 
 
病原体を次々に発見! 活路を見出す

 コレラをきっかけに防疫の制度化が進んだ明治初期。しかし、その効果はほとんどなく、明治13(1880)年の伝染病予防規則の公布後も流行は続きます。
明治15(1882)年4月、横浜でコレラが発生し、次第に東京など全国へ拡大。それに伴い、コレラ退散を願う加持祈祷が各地で盛んになりました。この動きに対して内務省は、治療が疎かにならないよう「まず薬剤内服の有無を証明させ、医師が診断し治療中のものに限り、差し支えないものとする」などと、加持祈祷を制限する通達を出します。
明治16(1883)年、コレラ治療に光明が差す大きな出来事が起きました。ドイツの細菌学者ロベルト・コッホがコレラ菌を発見したのです。しかし、適切な治療法や予防法が確立するまで、まだ時を待たなければならず、その間にもコレラが度々流行します。
明治19(1886)年の流行では感染者が約15万人、死亡者が10万8405人に達し、死亡者数は国内最悪のコレラ流行年とされる明治12年の10万5786人を上回りました。
コッホのコレラ菌発見から12年を経た明治28(1895)、ついにコレラ治療の道が開けます。日本近代医学の父・北里柴三郎が、世界初のコレラ血清療法の効果について講演を行ったのです。
北里は明治22(1889)年、破傷風菌の純粋培養に成功して血清療法※1を確立し、致死率の高かった破傷風の治療と予防を実現していました。これを応用したコレラの血清療法も効果が認められ、明治35(1902)年より日本最初のコレラ予防接種が始まります。
また、開国以来の念願だった完全な検疫権(外国からの伝染病を防ぐための検査)※2も、その3年前の明治32(1899)年に獲得していたことから、度々発生したコレラの流行はようやく終息に向かいました。
ちなみに明治年間のコレラによる死亡者は、日清・日露戦争の戦死者をはるかに上回る約37万人と記録されています。
 
※1【血清療法】
 免疫血清を注射して治療する方法。馬などの動物の体に、病原体やその毒素を繰り返し注射すると、馬の血清中にこれに対する抗体ができる。この血清を免疫血清という。これを患者に注射し、抗原抗体反応を利用して治療する。(Gakken「キッズネット」より)
 
※2【検疫権】
伝染病の疑いのある船や乗員を検査し、大丈夫と判断されるまで上陸させない権利。文久2(1862)年、すでに幕府は各国にコレラ患者のいる船の入港を拒絶することを伝達していたが、諸外国は治外法権を理由にこれを長く無視していた。
 
なお、19世紀末から20世紀初頭にかけては伝染病の病原体が次々と発見され、その治療や予防に大きな進展がみられました。
コレラ菌を発見したコッホは1876年に炭疽菌、1882年には結核菌を発見、純粋培養や染色の方法を改善して細菌培養法の基礎を確立する功績を残し、「近代細菌学の開祖」と称されています。
破傷風菌の培養と血清療法の確立で世界的な研究者となった北里は、コレラの撲滅以外にも明治27(1894)年に世界で初めてペスト菌を発見するなど活躍し、第1回ノーベル賞の候補になりました。
明治30(1897)年には北里の指導を受けた志賀潔が赤痢菌を発見、同じく北里研究所の研究員だった野口英世も、黄熱病や梅毒の研究で世界にその名が知られています。
また、病原体を直接叩く化学療法においても、秦佐八郎とドイツのP.エールリヒが梅毒の特効薬として世界初の抗生物質「サルバルサン」を開発し、伝染病治療に大変革をもたらしました。その後、ペニシリンやストレプトマイシンなど多くの抗生物質が次々と開発され、伝染病の治療は容易になっていきます。
「疫病(伝染病)、恐るるに足らず」
いつしかそのような意識が、医療従事者や、一般の人々の間でさえ、次第に芽生えてきます。
 
 
今さら伝染病でもない!? 「感染症」変更後も依然続いた差別

 幕末や明治期の人々にインパクトを与えた「伝染病」という用語も、昭和の時代に入ると陳腐化してきました。医学や医療技術が飛躍的に進歩し、伝染病がけっして“不治の病”ではなくなったからです。また戦後、人々の健康意識の高まりや衛生環境の向上に伴い、かつて猛威を振るった伝染病のほとんどが影を潜めました。
こうした状況から「いまさら伝染病でもない」と、1960年代に日本伝染病学会(現日本感染症学会)が伝染病に代わり「感染症」の呼称を採用します。医学教育の現場でも感染症の研究を志す若者が激減し、それに関係する講義も著しく減っていく傾向がみられました。
しかし、感染症患者に対する偏見や誤解は依然と続き、特にハンセン病患者への差別は本人だけでなく、その家族をも長く苦しめます。 
日本におけるハンセン病の記録は古く、日本書紀や今昔物語集にも記述がみられます。かつては「癩病(らいびょう)」と呼ばれ、この病気にかかると、世を忍ぶように家の奥座敷や離れ小屋で暮らしたり、あるいは家族への迷惑を心配して、放浪の旅に出たりする「放浪らい」と呼ばれる人たちがたくさんいました。
こうした日本の現状を明治になってから諸外国が知り、「らい病患者を放置しているのは、文明国としてあるまじきこと」と、政府は激しい非難をあびます。そこで明治40(1907)年、政府は「癩(らい)予防に関する法律」を制定し、国を挙げて放浪らいの人たちの救済に乗り出しました。しかし、患者たちを収容して施設に入所させ、社会から隔離していく政策が、皮肉にも「らい病の伝染力は強い」といった誤った認識を世間に植え付けることになります。
昭和4(1929)年、ハンセン病患者を一掃しようと「無らい県運動」が全国で起こり、各県が競って患者を見つけ出し、施設へ強制入所させる動きが活発化しました。昭和6(1931)年になると、「癩予防に関する法律」が「癩予防法」(旧法:昭和28年廃止)に改題され、在宅患者も強制隔離の対象になります。
この過激な差別は戦後になっても収まらず、昭和28(1953)年には患者たちの猛烈な反対を押し切って「らい予防法」が成立し、世間のハンセン病に対する偏見や差別を一層助長させました。
同法は平成8(1996)年になってようやく廃止されましたが、この間に患者はもとより、その家族までもが就職や結婚で大変な苦労を強いられたことは、ここで改めて触れるまでもないでしょう。
当初患者の救済が目的だった取り組みが、いつのまにか人々の間に偏見や差別を生み、強制隔離へと変貌していく。これが人権問題だという認識に至るまで、私たち日本人はあまりにも長い月日を要しました。
 
 
患者の人権に最大限の配慮を~感染症法の施行

 一時、医学教育の現場で不振を極めた感染症の研究や講義は、その後、エイズの発生や院内感染、新興・再興感染症が社会問題となり、再び重視されるようになります。
 一方、国内での感染源封じ込めに重点を置いた従来の感染症対策は、航空機など交通手段の発達や、グローバル化の進展による人と物資の活発な移動が国外からの病原体侵入を容易にし、十分な効果をあげることができなくなっていました。
また感染症対策における患者の人権の尊重も、深刻な社会的課題となってきたことから、政府は平成11(1999)年4月、「感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律」(感染症法)を施行します。
感染症法は明治から100年以上続いた「伝染病予防法」と、「性病予防法」及び「エイズ予防法」の3つを統合して成立、平成19(2007)年4月の法改正では「結核予防法」も包括しました。
感染症法の注目される特徴の一つは、集団としての感染症の蔓延防止に注力した前の法令(伝染病予防法)と違い、個々の国民の感染予防と治療に重点を置き、患者の人権にも最大限配慮している点です。そのため下の通り、各感染症の感染力や危険性などによって「一類」から「五類」、さらに「新型インフルエンザ等感染症」(平成20<2008>年5月の改正で追加)、「指定感染症」、「新感染症」まできめ細かく分類し、必要な対策が定められています。
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新型コロナウイルスについては、令和2(2020)年2月に指定感染症とする政令を施行、これにより感染者の入院勧告や就業制限、療養先や自宅から外出自粛の措置などができるようになりました。指定感染症の指定期間は1年ですが、ウイルスの特性が未だ明らかになっていない現状から、政府は11月末、令和4(2022)年1月末で延長する方針を示しています。
  
 
今の困難を乗り切るために

 2000年に入って以降、サーズ(重症急性呼吸器症候群「SARS」コロナウイルス、流行:2002年~03年)、マーズ(中東呼吸器症候群「MERS」コロナウイルス、流行:2012年~)、そして今回の新型コロナウイルス(「SARS」コロナウイルス2)と、感染症は新たな局面を迎えています。
日本はサーズ、マーズの世界的な感染拡大を傍目に、いずれのウイルスも侵入することなく無傷で済みました。近年国内を騒がせた感染症としては、2014年夏のデング熱が想起されるでしょう。東京の代々木公園で蚊に刺された人が40度近い高熱と全身の痛みを訴え、感染が確認されました。しかし、これもウイルスは拡散することなく、早期に終息しました。このように重なった幸運が、皮肉にも新型コロナへの対応が後手に回った要因の一つであることは否定できません。
太古から目に見えない敵におびえ、神仏や天皇に救いを求め、はてはアマビエなどの妖怪にさえすがった私たち日本人。あれだけ切実だった疫病(感染症)の恐ろしさを、新型コロナでパンデミックに陥り、感染者が続出するまで忘れていました。現代医学・医療技術への過信や慢心、油断から、いつしか私たちは過去に起きた惨状を理解しようとせず、注意を怠ってきたのです。
新型コロナによって、世界は明らかに抜き差しならない状況になりました。スペイン風邪以来となる100年に一度の危機を前に、先人の経験や知恵を私たちはどう生かすべきか、今ほどそれを問われている事態はありません。ここであえて提言するなら、今の困難を乗り切れるかどうかは、私たち一人ひとりの健全な思考とそれに基づく良識、先を見通す想像力にかかっているのではないでしょうか。
人は危機的状況に陥ると、デマや流言など不確かな情報に飛びつきやすい心理状態になります。特に感染症は目に見えないウイルスや細菌が原因なだけに、なかなか正体がつかめず、人々の不安は次第に疑心暗鬼へと転じます。そして、誰かを犯人に仕立て上げ、集団で攻撃することによって鬱憤をはらそうとする――。
例えば中世ヨーロッパでペストが蔓延した際は、その原因を求める人々の心理がユダヤ教徒の迫害を招きました。我が国においてもハンセン病を恐れるあまり、患者に対する偏見や差別が長く続いたことは本稿で触れた通り。エイズも有効な治療法が発見されるまで患者への差別が広まり、現在の新型コロナ禍でも感染リスクの高い医療従事者やその家族に向けられる偏見が社会問題化しています。
感染症を怖がる気持ちは、危機を察知する生存本能として持つべきでしょう。しかし、合理的根拠や理性的判断を欠いて、ただやみくもに怖がるだけでは不要な混乱を招きます。一方で感染症を軽視し、感染リスクを顧みない軽率な行動が、感染症防止対策を滞らせることもあります。今の日本の現状がまさにそうでしょう。いくらGo Toキャンペーンで安く旅行や食事ができるからといって、コロナ禍が収まらない状況で大勢の人が出歩いたらどうなるのか。私たちに想像力があったなら、現在のような爆発的な感染拡大など起きていません。
「感染症を正しく怖がる」――巷間でよく聞くようになった言葉ですが、“集団主義”や“同調圧力”などの民族的傾向がみられる私たち日本人には、よくよく心に留めおくべき戒めではないでしょうか。
サーズ、マーズなど昨今の続出するコロナウイルスの発生は、環境破壊や野生動物の生態系の崩れが関係しているという専門家や識者の見解が多く見受けられます。環境破壊によって人と野生動物が近づき、それが新たな感染症を生み出すきっかけになっていると、人類の無秩序な生態系への浸食に警鐘を鳴らしています。
私たちは、これまでの生き方や価値観を問い直す時期に来たと言えるでしょう。今、直面する困難はいったい、私たちにどのようなメッセージを突きつけているのか。そのことを真摯に問い続けることによって、今の困難を乗り切る心構えが自ずと養われ、閉塞した事態を打開する知恵が閃く――そう信じています。
(--日本人の“感染症観”完。以降も不定期で天然痘、諧謔(インフルエンザ)など個々の感染症の歴史を考察予定)
 
 
 
文:中岡裕次郎(オフィスなかおか)
参考文献:小平市立図書館「コレラが町にやって来た」/厚生労働省HP「わたしたちにできること~ハンセン病を知り、差別や偏見をなくそう~」/日本医史学雑誌(第48巻第3号、第55巻第4号、第56巻第2号)/日本内科学会雑誌 創立100周年記念号(第91巻第10号)/ブリタニカ国際大百科事典/世界大百科事典/国史大事典/朝日日本歴史人物事典/大辞林/旺文社日本史事典/山川出版社日本史用語集/Wikipedia等 
    

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