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感染症で辿る日本史

感染症<序>0
いにしえの人々は疫病をどのように呼び、恐れ、向き合ってきたのか。
 疫病はいつごろから「伝染病」となり、「感染症」という呼称に行き着いたのか――。
「名は体を表わす」といいますが、疫病、伝染病、感染症といった呼び名にも、その時々の人たちの“未知なる病”に対する恐怖や認識、思想などが濃厚に込められているはずです。疫病が「感染症」になるまでを辿りながら、日本人の“感染症観”の変化をみていきましょう。
今回は未知の病を「疫病」として恐れ、その渦中で生まれた信仰や伝統行事、慣習、文化などを概観していきます。
 
 
 
(3)疫病から「感染症」へ~日本人の“恐れ”の変化①
 
改元にも大きな影響を与えた疫病

疫病の呼称は時代によって異なり、奈良時代に成立した古事記(712年)や日本書紀(720年)には、いずれも「疫疾」「疾疫」と書いて「えやみ」、あるいは「えのやまい」とあります。

平安時代の中期に編纂された辞書『倭名類聚抄』(わみょうるいじゅしょう:931~938年)にも「衣夜美(えやみ)という言葉がみられ、同書の注釈書『倭名類聚抄箋注』を著した江戸後期の考証学者・狩谷棭斎(かりやえきさい)は“疫”の字について、「民が皆、これを疾(や)むから皆赴(おもむ)く役と同じように発音する」と注解します。

衣夜美はまた別名として、「癘(れい)「瘧(おこり)とも呼ばれました。先の『倭名類聚抄』では、前者の「癘」について「説文に云う、音は例、阿之岐夜万比(あしきやまい)」、後者の「瘧」は「音は虐、俗に云う衣夜美、一に云う和良波夜美(わらわやみ)」と、それぞれ記します。
少し判然としないので『精選版日本国語大辞典』(小学館刊)で調べてみると、「癘」は「はやりやまい、流行病、疫癘(えきれい:悪性の流行病、疫病)」とあり、かつて「ライ病(癩病)」と呼ばれたハンセン病も意味するそうです。参考までに「癘」を使う熟語には前出の「疫癘」のほか、「(れいき:流行病などを起こさせる悪神・疫病神)」、「(れいき:熱病を起こさせる邪気)」などがあります。
一方、「瘧」は「間歇熱(かんけつねつ:一定の時間をおいて起こったり、やんだりする熱)の一種。マラリア性の熱病」と解説し、“わらわやみ”については「童(わらわ)(やみ)の意か」とあります。
 “わらわやみ”をさらに『学研全訳古語辞典』(学研刊)で引くと、「子どもに多い病気で熱病の一つ」とのこと。要するに「瘧」は、今日のマラリアのような病を指したのでしょう。ちなみに先ほどの「癘」にも、マラリアを意味する「瘴(しょうれい:湿熱の気候風土によって起こる伝染性の熱病や皮膚病。マラリア等)」という熟語があります。

「瘧」は「瘧病(おこりやまい/ぎゃくびょう)という呼び名とともに、日本の古文献にしばしば登場します。例えば『源氏物語』の5帖「若紫」で、光源氏が瘧(作中では「わらわやみ」と訓じる)を患い、さまざまなまじないや加持を試すも効果がなく、評判の高い北山の祈祷師のもとへ従者を従えて赴く場面があるのをご存知の方も多いのではないでしょうか。マラリアに効く薬や治療法がなく、高貴な人でさえ、まじないや加持祈祷に頼らざるをえなかった当時の状況を如実に伝え、興味深いものがあります。

痘瘡(とうそう:天然痘)、結核、麻疹(はしか/ましん)、咳逆(がいぎゃく:インフルエンザ)、梅毒、コレラなど、日本史上で蔓延し、人々を苦しめた疫病の数々。これらの病はもともと特定地域の風土病だったものが、文明や社会の発展、異文化交流による人・文物の移動に伴い、他の地域にも伝播していったと考えられています。日本も大陸・半島から、結核が稲作とともに入り込み、天然痘が仏教などと一緒に渡来人によってもたらされました。
もっとも、その一方で医師も渡来して医学の知識が伝わり、8世紀になると律令制度のもと、内薬司(ないやくし/うちのくすりのつかさ:宮中の薬や香の管理・調合等を司った)や典薬寮(てんやくりょう/くすりのつかさ:宮中の医薬・薬園、官人の医療等を司った)が創設され、国内初の医療制度が整えられました。しかし、当時の医学で疫病の原因などわかるはずがなく、それを患った天皇・皇族等への対処も素朴な薬草治療ぐらいしかなかったようです。そこで、代わりに重視されたのがまじないや加持祈祷でした。

古来日本では、疫病はもののけや怨霊、疫神、疫鬼のしわざ、あるいは神仏の祟りなどと考えられ、罹患すると、それら超常的な存在の怒りを鎮めるべくひたすら祈祷し、病気平癒を願うのが常でした。
また、全国に広がる疫病は一国に責任のある天皇など、ときの為政者の失政が原因と信じられていたため、ひとたび疫病が流行すると国挙げての祈祷が各地の寺社仏閣で営まれました。
 ほかにも人民の心機一転を図るべく、改元も頻繁に行われたことが注目されるでしょう。昨年5月に制定された「令和」は「大化」から数えて248番目の元号ですが、自然災害や疫病、戦乱などの凶事に際し、その悪影響を断ち切るために行う「災異改元」※1がこれまでに106回、実に43%を占めるのは刮目されます。
原因不明の病で大勢の人が次々と命を落としていく恐怖のなか、私たちの祖先は懸命に祈り、改元などで凶事の沈静化を願うほか、なす術がなかったのです。
 
※1【改元の種類】
改元の種類は、①新天皇の即位による「代始改元」、②吉事を理由とする「祥瑞改元、③凶事の影響を断ち切る「災異改元」、④三革(革令<甲子の年>、革運<戊辰の年>、革命<辛酉の年>)を区切りとして行う「革年改元」――の4つある。
 明治時代に天皇一代で一つの元号とする一世一元の制が採用されるまで、災害や飢饉、疫病、戦乱などの理由で頻繁に改元(災異改元)が行われた。日本がいかに多くの災厄に見舞われてきたかがわかる

 
 
祇園祭の成り立ちに潜む疫病

疫病の原因を「神仏の祟り」と考えていた古(いにしえ)の日本人。しかし、仏教に「祟り」という概念はなく、「祟りは神の意志の表れ」という神道の思想を当てはめたものと考えられています。

6世紀半ばに伝来した仏教信仰は、古代社会に浸透していく過程で日本固有の神義祇信仰(神道)と融合し、奈良時代に入ると「神仏習合」(神仏混淆:しんぶつこんこう)が起こりました。天平年間に天然痘が大流行(735~737年)した際、“神道の長(おさ)”であるはずの聖武天皇が仏の加護によって病を退散させようと都に東大寺を建立し、盧舎那大仏(るしゃなだいぶつ)を造立したのは歴史の知るところです。
以降も大きな災害や飢餓、疫病などが発生すると、ときの治世者が東大寺などの大寺院に僧侶を集めて読経させたり、全国の神社でいっせいにお祓いさせたりするなど大規模な祈祷をたびたび行い、神仏関係は一段と緊密化していきました。そして、平安時代になると神前読経、神宮寺などが広がりをみせ、やがて「御霊信仰」(ごりょうしんこう)が現れるようになります。
御霊信仰とは、政争や戦乱の中で非業の死を遂げた敗者の霊が、疫病などの祟りをもたらさないよう鎮める信仰です。特に平安時代は摂関政治で権勢をふるった藤原氏の勢力拡大に伴い、政争で左遷されたり、配流されたりして死亡した皇族・豪族が続出しました。例えば、菅原道真が一般的によく知られているでしょう。そうした時勢を背景に、政争敗死者を担いで、朝廷への不満や反発を正当化する御霊信仰が盛んとなったのです。
この動きはやがて民間の疫病信仰と結びつき、「御霊会」(ごりょうえ)の流行を引き越しました。御霊会は恨みや悔いを残したまま憤死した人々の霊を鎮魂する神仏習合的祭事で、記録上では清和天皇の貞観5(863)年5月20日、平安京の広大な庭園「神泉苑」(しんせんえん)<コラム1参照>で催されたものが最初とされています。このときの御霊会では、当時都で大流行した咳逆(インフルエンザ)の退散を願い、早良親王(さわらしんのう)など六柱の御霊<コラム1参照>が祀られました。 
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しかし、その後も疫病は収束せず、貞観11(869)年には富士山の噴火や貞観大地震など全国に災厄が相次いだため、人々はこれを、疫病を退ける神・牛頭天王(ごずてんのう)の祟りとみて恐れました。
 牛頭天王は釈迦が説法を行ったと伝わるインドの寺院「祇園精舎」(ぎおんしょうじゃ)の守護神で、疫病除けの民間信仰「蘇民将来」(そみんしょうらい)<コラム2参照の由来に登場する武塔神(むとうしん)とも、日本神話のスサノオともいわれています。

人々の動揺が大きくなる中、朝廷は世の中の不安を鎮静化しようと同年6月7日、当時の国数(律令制度に基づく)に応じた66本の鉾を神泉苑の南端に立て、それら鉾に諸国の悪霊を移して祓う神事を営みました。そして14日には、庭園内に神輿を入れて御霊会を盛大に開催。これが恒例となり、その拠点として祇園天神堂も創建され、「祇園御霊会」と呼ばれるようになります。こうして京都の夏の風物詩「祇園祭」が始まりました。ちなみに祇園天神堂は時代が下って現在の八坂神社となり、前述した“神泉苑の南端”は同神社の三条御供社の位置にあたります。
祇園御霊会はその後、もっとも典型的な都市型祭礼として日本各地に広まっていき、その流れを汲む祭りは全国に1500ほど点在、福岡県の博多祇園山笠もその一つとして知られています。

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 ▲菊水鉾を引く祇園祭の風景(写真:京都フリー写真素材集:https://photo53.com/)。

ほかにも御霊信仰から派生した著名な例では、延期3(903)年、九州・大宰府で非業の死を遂げた菅原道真の怨霊(菅霊:かんれい)を鎮め祀る「天神信仰」が挙げられるでしょう。御霊信仰と雷神信仰が結びついて独自の発達を遂げ、京都の北野社(北野天満宮)を始めとする天満宮を生みました。天神(道真)を祀る神社は天満宮のほか、天神社、天満神社、菅原神社、北野天神社、北野神社などと呼ばれ、全国に1万2000社ほどあります。その分社数は八幡宮、神明宮に続き、国内第3位を占めているそうです。
御霊信仰は近世に至っても衰えず、江戸時代の御霊では百姓一揆を指導した下野国(千葉県北部~茨城県西部)佐倉藩領の義民・佐倉惣五郎(御霊社:宗吾霊堂<東勝寺・千葉県成田市>)などが知られています。
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疫病が生んだ民族行事、祭礼、風習など

 御霊信仰の広まりと定着は、疫病や災害などをもたらすとされる怨霊(御霊)への畏怖と畏敬も相まって、さまざまな民族行事、民族芸能、風習を生みました。例えば稲の害虫を追い払う農村行事「虫送り」は、深刻な害虫被害で不幸な死を遂げた農民の怨霊のしわざと考える御霊信仰に由来します。ほかに雨乞いなどの呪術的行事、念仏踊盆踊などの芸能性の濃い行事もその代表的な例といえるでしょう。

疫病を鎮めるために宮中で営まれた祭礼にも、形を変えて現代に伝わるものが多くあります。例えば、春の花びらとともに疫神が飛び散るのを防ぐ「鎮花祭」(ちんかさい、はなしずめのまつり)は、現在、京都市北区紫野にある今宮神社が毎年4月の第2日曜日に「やすらい祭」として開催しています。今宮神社は正暦5(994)年に催された紫野御霊会が起源で、やすらい祭は「鞍馬の火祭」(鞍馬寺)、「太秦の牛祭」(広隆寺)とともに、京都の三大奇祭の一つとして知られています。
また、都に疫病が入り込まないよう道の途中で疫神を饗応し、追い返してしまう「道饗祭」(みちあえのまつり、ちあえのまつり)は、今でも村落の境に道祖神を祀ったり、注連縄や藁で作った蛇などを張ったりして疫神の侵入を防ぐ「道切り」(辻切り)という慣習にその名残をみることができます。
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  このほか、正月の屠蘇(とそ)、節分の豆まき、桃の節句のひな祭り、端午の節句に菖蒲(しようぶ)を飾る風習、夏越の祓(なごしのはらえ)でお馴染みの茅の輪くぐりなども、もともとは宮中で営まれていた祭事でした。 
  • お屠蘇…「蘇」は鬼や邪を意味し、それを屠る(ほふる:殺す)のが語源。1年間の邪気を祓う縁起物の酒で、長寿を願って元旦に飲む。
  • 節分の豆まき…古来、「鬼は外」の鬼は「目に見えない恐ろしいこと」を意味し、疫病や災害なども含んだ。ちなみに赤鬼は、天然痘などの疫病で高熱を発し、顔が赤くなった病人を指すという説もある。
  • ひな祭り…邪気が入りやすいとされる桃の節句に、紙などで人形を作り、それを体に撫でることで穢れを移し、川に流して邪気を祓う「流し雛」がルーツ。
  • 菖蒲…昔から薬草として珍重され、その強い香りから魔除けになると考えられていた。端午の節句の時期は季節の変わり目で、体調を崩す人が多かったことから、厄除けの意味で飾ったり、菖蒲酒を作って飲んだりしたという。なお5月5日は、611年に推古天皇が大規模な薬草狩りを行った日でもある。
  • 茅の輪くぐり…神社の境内に茅で作った大きな輪を建て、決まった作法(左右に八の字、計3回)によりくぐることで、心身を清め、厄災を祓い、無病息災を願う。夏越の祓を象徴する行事。「蘇民将来」に由来<コラム2参照>し、年後半に向けた英気を養えるという。 
儀礼的なもの以外にも、厄除けに効力があるものを屋外や屋内に掲げたり、置いたりして、疫神を入れない信仰・慣習があります。ご利益のある寺社から授与される護符などがそうで、牛頭天王(武塔神、スサノオ)の「蘇民将来子孫也」札<コラム2参照>、鍾馗(しょうき)、角大師(つのだいし)などの札を玄関などに掲げて、疫神を祓う「門守」(かどまもり)の風習は今も各地でみることができます。
鍾馗などは端午の節句の際、子どもの疫病除けを願って幟(のぼり)に描かれたり、五月人形になったりしますが、朱色(赤色)で描かれた「朱鍾馗」(しゅしょうき)を思い浮かべる人も多いのでは。太古から赤色は魔除けの色とされ、特に疱瘡(天然痘)を除くと信じられてきました。赤べこや真っ赤なダルマ、金太郎など郷土玩具にも赤色のものが多く、疫病除け、疱瘡除けとして子どもの身近に置かれたようです。 

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             ※京都フリー写真素材集集リンク:https://photo53.com/


 麻疹絵、疱瘡絵、アマビエにみる疫病退散の願い

 全国的に広まる疫病の原因は、怨霊や疫神のしわざか神仏の祟り、あるいは天皇の失政にあると信じていた日本人。しかし、それは平安時代までのことで、特に天皇の責任については武士の台頭により、その支配力が弱まっても疫病が蔓延することから、別に原因があると思うようになりました。また、律令制下で外交を司った筑前国(福岡県)の大宰府で、天然痘などの疫病が発生したのち全国に広まるケースが多かったため、“未知の病”は海の彼方からもたらされるとも、人々は考えるようになります。

16世紀末の安土桃山時代、豊臣秀吉の朝鮮出兵をきっかけに梅毒が日本で初めて流行しました。半島に派遣された軍勢が現地で感染し、持ち帰ったという説が有力です。江戸初期までに梅毒で命を落とした武将には、加藤清正、前田利長(前田利家長男)、結城秀康(徳川家康次男)、浅野幸長(浅野長政長男)などがいます。

江戸時代は鎖国政策により、海外からの疫病流入に一定の抑止効果がありましたが、それでも天然痘(疱瘡)麻疹(はしか)水疱瘡(みずぼうそう)は定期的に発生し、これら3つを“一生に一度はかかる病”として「お役三病」と呼んだそうです。
なかでも麻疹は30年に一度の割合で流行、その感染力の強さや死亡率の高さから「命定め」と恐れられました。特に文久2(1862)年の大流行は江戸だけで数万人が命を落とすほどすさまじく、麻疹の予防や養生の心得、患っても軽く済むまじないなどを書き添えた「麻疹絵(はしかえ)が飛ぶように売れたと伝わっています。
  
疫病を題材にした錦絵は麻疹絵以外にも、疱瘡絵コレラ絵などが知られています。疱瘡絵は赤色が疱瘡除けになる(前述)ことから赤一色で描かれ、「赤絵」(あかえ)とも呼ばれました。絵の題材には鍾馗のほか、強弓で武勇を轟かせた鎮西八郎(源)為朝、金太郎、桃太郎、獅子舞、達磨など、療養中の子どもに勇気を与えたり、つらい気持ちを和ませたりするものがよく選ばれたようです。
罹患したら失明したり、顔に“あばた”ができたりするため、「器量定め」「見目定め」と呼ばれた疱瘡。大きな痕を残さず回復してほしいと願う親心が染み込んだ疱瘡絵は、病気が癒えると焼き捨てたり、川に流したりするものだったため、あまり現存していません。
  
新型コロナウイルスの感染拡大で、にわかに注目を集めている「アマビエ」。弘化3(1846)年、肥後国(熊本県)の海に突如現れ、今後6年間の諸国の豊作と疫病の発生を予言し、疫病が蔓延したら自分の姿を写した絵を人々にみせるよう告げたと伝わる半人半魚の妖怪です。
同じような予言獣はほかにもいて、江戸後期ごろに流行をみました。例えば、女性の顔と尾が剣になっている竜の体を持つ「神社姫」(1819年)。自分の写し絵で疫病を防げると告げた最初の妖怪で、コレラの流行も予言したといわれます。
人の顔を持つ牛の妖怪「件(くだん)(1827年)は牛から生まれ、数日で死にますが、人語を話し、作物の豊作や疫病の発生などを予言したとされます。件の姿絵もまた、厄除招福の護符になるそうです。
3本足の猿のような「アマビコ」(1843年)は各地に伝承が残っており、海から現れて吉兆にまつわる予言をしたと伝わります。ちなみにアマビエは、このアマビコを写し間違えたという説が有力です。
目を奪うインパクトとともに、妙な愛嬌も感じさせる予言獣たち。どこか憎めない容姿とその人知を超えた能力は、医学が未熟だった頃の人々の不安を吹き払い、ささやかな希望を与えたことでしょう。そして、文明が発達した現代に生きる私たちもまた、アマビエたちに癒され、新型コロナに立ち向かう勇気をもらっています。
疫病(感染症)の怖さに昔も今もない――そんな妖怪たちのささやきが聞こえてきそうです。
(-序-「日本人の“感染症観”」(3)-②に続く)
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文:中岡裕次郎(オフィスなかおか)
参考文献:日本歴史探訪2・古代王国の謎(角川書店編:角川文庫)/病が語る日本史(酒井シヅ:講談社)/元号でたどる日本史(グループSKIT:PHP文庫)/精選版日本国語大辞典(小学館)/学研全訳古語辞典(学研)/国史大辞典2(吉川弘文庫)/日本史大辞典(平凡社)/民間信仰辞典(桜井徳太郎編:東京堂出版/日本民族事典(大塚民族学会編:弘文堂)ブリタニカ国際大百科事典/世界大百科事典/国史大事典/朝日日本歴史人物事典/大辞林/旺文社日本史事典/山川出版社日本史用語集/八坂神社HP/蘇民将来符-その信仰と伝承:八日堂蘇民将来符(HP)北野天満宮HP/紫野 今宮神社HPWikipedia等 


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