記事一覧

感染症で辿る日本史

感染症<序>0

 はるか太古の昔から人類を苦しめてきた感染症。その爆発的な蔓延はときに騒乱を引き起こし、一つの国、あるいは一つの文明をあっけなく消滅させるほど歴史を大きく揺るがせました。
 またそれは、民族の精神的支柱をなす宗教観やイデオロギーにも多大な影響を与え、従来の社会構造や秩序、文化に一大変革を促すきっかけになることが度々あったことも見逃せません。
 今回は仏教伝来時、古代日本人が直面し、現代日本社会のメンタリティーを決定づけた、疫病の原因も絡む宗教戦争の顛末を眺めてみましょう。



 (2)疫病も原因?!  国内初の宗教戦争

 仏教の定着を揺るがした疫病
 倭国でヤマト王権による統一が進んでいた古墳時代中期の4世紀頃、朝鮮半島では高句麗(こうくり)が南下して勢力を拡大させ、百済(くだら)・新羅(しらぎ)との三つ巴の争い※1が激化しました。
 一方、中国大陸でも北方騎馬民族が侵入し、北部を「五胡十六国」(ごこじゅうろっこく)として支配、それまで全土を統一していた晋(しん)は南部に追いやられ、やがて南北朝時代※2が到来します。
 このように東アジア情勢が戦乱で大きく変動する中、安住の地を求め、海を渡って倭国に移り住む人たちがいました。「渡来人(とらいじん)」です。彼らは鉄製の武具や「須恵器(すえき)」と呼ばれる土器のつくり方、農具・工具の製作、金細工、建築・造船技術など大陸の新しい知識を伝え、倭国の発展に大きく貢献しました。
 第15代応神(おうしん)天皇の5世紀頃には、養蚕と機織を伝えた秦氏(はたうじ)の先祖・弓月(ゆづき)の君が移住し、日本書紀はそのときの様子を「弓月の君が百済の120県の民を率いて渡来」と記します。また同じ頃、百済から王仁(わに)が「論語」や「千字文」(せんじもん)を携えて来朝し、漢字が伝えられました。
 6世紀に入ると大陸・半島との交流はさらに活発化して、法律の知識や仏教の思想をもつ人々※3が続々とやってきました。彼らがもたらした法律知識は、やがて古代日本国家が中央集権的な律令国家へ向かう原動力となり、仏教思想は日本人の精神的支柱の一つとして根づいていきます。
 しかし、仏教については伝来時に蔓延した疫病の原因も絡め、その是非をめぐって内乱が勃発するなど定着まで紆余曲折がありました。


 崇仏か、廃仏か、蘇我・物部の論争勃発!
 インドで興り、1世紀には中国に伝わっていたという仏教。その教えが日本へ公式に伝来したのは6世紀半ばのことです。西暦では538(戊午)(上宮聖徳法王帝説、元興寺縁起)と552(壬申)(日本書紀)の2つの説があり、現在は前者の538年説が有力とされています。
 ときの天皇は聖徳太子の祖父にあたる第29代欽明(きんめい)天皇(在位539~571年)で、百済の聖明王(せいめいおう)から仏像と幡蓋(はたぎぬがさ:寺院の装飾品)、経典が贈られてきました。
 欽明天皇は百済の使者による仏教の説明に「素晴らしい教えだ」とたいへん喜び、仏教振興の是非を群臣に問いました。すると、大臣※4の蘇我稲目(そがのいなめ)は賛成しましたが、大連※4の物部尾輿(もののべのおこし)は「外国の神を礼拝すれば国神の怒りを招く」と強く反発し、朝廷内のツートップの意見が割れたのです。
 蘇我氏は朝廷の財政を掌握しており、渡来人との関係も深く、外交に力を入れて大陸文化を積極的に取り入れるなど、先進的な考えを持っていました。一方の物部氏は、武器の製造・管理、軍の統制、警察、刑罰など軍事面で重要な役割を担当。神武天皇よりも前にヤマト入りした饒速日命(にぎはやひのみこと:日本神話に登場する神)を先祖とすることから、日本古来の神事と深いつながりがありました。
 困った欽明天皇は、とりあえず寄贈された仏像などを稲目に授け、礼拝するよう命じました。さっそく稲目は私邸を寺に改め、仏像を祀って礼拝をはじめたところ、まもなく疫病が流行り出し、瘡(かさ)を発した人が国中にあふれたのです。
 『日本書紀』ではその惨状を、「瘡を病む者は、身焼かれ、打たれ、摧(くだ:砕)かるるが如く、啼泣(ていきゅう)して死す」と伝えており、症状から天然痘(疱瘡)が流行したと考えられています。天然痘ウイルスはもともと日本列島には存在しないため、仏教とともに渡ってきた僧侶たちによって持ち込まれたというのが通説です。
 この事態に尾輿など廃仏派は、「仏教を受け入れたせいだ」として仏像等の廃棄を上奏しました。欽明天皇もそれを認めたことで稲目の寺は焼き払われ、仏像は難波の川に捨てられてしまいました。
 これが世にいう蘇我氏・物部氏の「祟仏(すうぶつ)論争」の発端です。


 度重なる疫病蔓延で論争から政争、内乱へ
 仏教をめぐる蘇我氏・物部氏の確執は、稲目から馬子(うまこ)へ、尾輿から守屋(もりや)へと、子の代になっても続きます。
 584年、百済から鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩を持って帰国し、第30代敏達(びだつ)天皇(在位572~585年)が祟仏を許可したことから、馬子は父・稲目と同じく仏殿を立てて礼拝をはじめました。すると、このときも天然痘らしき疫病が蔓延したため、守屋が「日本古来の神をないがしろにした神罰」と、仏教受容を取り止めるよう敏達天皇に強く進言。同意を得て、守屋自ら仏殿に赴いて火を放ち、仏像を海に投じました。
 しかし、その後も疫病は収束せず、敏達天皇まで感染し、崩御してしまいます。そうしたことから、今度は「寺を焼き、仏像を棄てた仏罰では」と人々は噂しました。
 このように世情が混乱する中、次の天皇に馬子の妹(石寸名:いしきな)を妃とする第31代用明(ようめい)天皇(在位585~587年)が即位します。用明天皇は崇仏派であるため仏法を重んじ、朝廷において仏教を実質的に公認、自身も歴代天皇で初めて仏教徒に改宗しました。つまり、八百万の神々と人間とを取り持つ神道の長(おさ)でありながら、仏にも仕える身となったのです。皇族や群臣に大きな衝撃が走ったのは想像に難くないでしょう。このことによって、蘇我氏の影響力が朝廷に大きく及ぶようになり、廃仏派の守屋は危機感を募らせていきました。
 しかし、もともと病弱だった用明天皇もまもなく疱瘡に罹り、わずか即位2年で崩御してしまいます。その後、蘇我氏と物部氏の争いは皇位継承をめぐり、政争へ発展していきました。
 馬子は欽明天皇の皇子・泊瀬部皇子(はつせべのみこ)を擁立する一方、守屋も同じく欽明天皇の皇子・穴穂部皇子(あなほべのみこ)を立てて対抗。馬子は先手を打って587年6月に穴穂部皇子を暗殺し、7月には群臣と謀り守屋追討軍の派遣も決定します。追討軍には大伴・阿部・平群(へぐり)・巨勢(こせ)などの有力豪族がつき、用明天皇の長子で蘇我氏と血縁の強い厩戸皇子(うまやどのみこ)、すなわち聖徳太子の姿もありました。
 対する守屋はすでに形勢不利を察し、急ぎ本拠地の河内国・阿都(あと:現在の大阪府八尾市)に戻って兵を集め、戦いの準備を開始しました。
 このようにして日本国内で最初の、そして、おそらく最後と思われる宗教戦争「丁未(ていび)の乱」が勃発するのです。

gazou1-5-1.jpg     

 物部氏の滅亡、蘇我氏台頭へ
 蘇我氏率いる追討軍と物部軍の戦いは、餌香川(えかがわ:現在の石川。大阪府南東部を流れる大和川水系の一級河川)の河原で火ぶたが切られました。朝廷で軍事を司る精鋭の戦闘集団・物部軍はやはり手強く、稲城(いなき)を築いて頑強に抵抗。守屋自身も朴の木の枝間に登り、雨のように矢を射かけるなど大いに奮戦し、追討軍を3度撃退します。
 この劣勢に厩戸皇子は、仏法の加護を得ようと白膠木(ヌルデ:ウルシ科ヌルデ属の落葉高木)を切って四天王の像をつくり、「勝利の暁には仏塔をつくり、仏法の普及に努める」と戦勝を祈願しました。
 この願掛けに追討軍は奮い立ち、再び進軍を開始。一進一退の激闘の末、厩戸皇子の舎人(とねり:じゅうしゃ)・迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋を射落とします。これを好機に追討軍は一気に攻めかかり、総大将を失った物部軍は総崩れとなって守屋一族はことごとく討たれました。

 こうして宿敵・物部氏を中央から排除することに成功した馬子は、戦後、泊瀬部皇子を即位させ、皇子は第32代崇峻天皇(在位587~592年)となります。しかし、崇峻天皇が蘇我氏の傀儡(かいらい)なのはいうまでもなく、これに不満な天皇はやがて馬子と対立。またもや馬子が先手を打ち、592年、部下である渡来人の東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に命じて崇峻天皇を暗殺させました。日本史上まれにみる「天皇弑逆(しいぎゃく)事件」※5です。
 その後、馬子は敏達天皇の妃で自分の姪でもある炊屋媛(かしきやひめ)を擁立して皇位につけました。日本最初の女帝・第33代推古天皇(在位593~628年)の誕生です。そして、同じく蘇我氏の血が流れる厩戸皇子を推古天皇の皇太子として摂政に就任させ、馬子自らが補佐する政治体制を構築しました。これによって蘇我氏の権力は朝廷内で絶大となり、仏教が広く布教されていくことになります。

 ◎帝釈天の配下で仏教世界を守る四天王
gazou2-1.jpg
 ▲東方を護る持国天(じこくてん)、南方を護る増長天(ぞうちょうてん)、西方を護る広目天(こうもくてん)、北方を護る多聞天(たもんてん)からなる。多聞天のみ単独で祀られることがあり、「毘沙門天(びしゃもんてん)」と呼ばれている(写真:時光寺<兵庫県高砂市>提供)


 聖徳太子の新政で仏教が普及
 推古天皇の摂政として、にわかに政治の中心に立つことになった厩戸皇子こと、聖徳太子。まずは物部氏追討の折の誓願を守り、593年、摂津国難波に四天王寺を建立しました。同寺院は蘇我氏が建てた飛鳥寺とともに、日本最古の本格的仏教寺院であることはご存知の方も多いでしょう。
 ちなみに、聖徳太子が戦場で四天王像を作った白膠木は別名「カチノキ(勝ちの木)」とも呼びますが、もちろん、これは物部氏との戦いで勝利したことに由来しています。

 推古天皇即位の翌年となる594年、聖徳太子の進言で仏教興隆の詔が発布され、仏教が政治の基本に据えられました。これを受けて、天皇家や諸豪族は競って氏寺を造るようになり、権力の象徴が古墳から寺院へ移っていくことになります。
 600年に入ると、聖徳太子は先進的な大陸の制度や文化を学ぶべく遣隋使の派遣を開始。603年に「冠位十二階の制」(血統より才能や功績に応じて人材を登用)、604年には「憲法十七条」(仏教・儒教の思想を盛り込んだ官僚向け道徳訓戒)を制定するなど、天皇中心の中央集権的国家体制の確立を進めていきました。
 それとともに文化の興隆にも努め、中国・南北朝の影響を強く受けた国際色豊かな飛鳥文化※6が花開くのは周知の通り。多くの大寺院が建立され、日本で最初の仏教文化が隆盛期を迎えます。

publicdomainq-0023615utu[1]
 ▲聖徳太子が建立した四天王寺(写真:パブリックドメインQより引用)。


 「神仏習合」にみるコロナ禍の日本人の可能性
 このように、疫病の原因も絡めた論争から政争、内乱、あげくに天皇暗殺を経て、推古朝の時代でようやく広まりをみせた仏教。しかし、熱心に信仰したのは蘇我氏など支配者層に留まり、庶民は相変わらず自然崇拝・祖霊崇拝など、古くからの考え方を行動規範にしていました。
 また朝廷内でも、奥が深く難解な仏教の教理をよく理解していたのは、聖徳太子や蘇我氏、一部の渡来人を除くと、ほとんどいなかったようです。
 そのため、仏教に対する当時の一般的な認識は、「祖先の冥福を祈ったり、疫病退散や病気回復を願ったりするための呪術の一種」などと、神道と一緒くたにされていた節があります。こうしたことから奈良時代に入り、日本固有の神の信仰と仏教信仰を融合させる「神仏習合」(神仏混淆:しんぶつこんこう)が起こったのでしょう。
 以降、人々の間で従来の神々に加え、仏の霊威にも縋る機運が高まり、大地震や飢餓、疫病などが発生すると全国の神社で一斉にお祓いをさせたり、大寺院に僧侶を集めて読経させたりする風習が定着していきました。

 神も仏も、ともに受け入れることで国内初の宗教的カルチャー・ショックを吸収した古代日本人。この非常に「寛容」で、きわめて「曖昧」な対応が現代日本社会のメンタリティーを決定づけたと、考古学者で歴史作家の故・樋口清之氏は著書『逆・日本史』(祥伝社刊)で述べています。つまり、仏教が伝えられたごく初期において、民族の精神的根幹をなす問題をあやふやに処理したことで、「宗教的対立やイデオロギー的対立に対し、他民族のような苛烈な反応を示さない“日本的伝統”の定着につながった」のだとか。
 思えば太平洋戦争の敗戦後、日本人がGHQの指導の下で、短期間のうちに従来の天皇を中心とする国家主義的価値観から、基本的人権に基づき、個人を尊重する民主主義的価値観へと大転換を果たせたのも、そうした淡白な民族的性質によるところが大きいのかもしれません。
 新型コロナウイルスのパンデミック宣言から3カ月あまり。なかなか収束が見通せない中、コロナと共に生活していく「ウィズ(with)コロナ」が盛んに唱えられるようになりました。つい三四半世紀(75年)前、自分たちの生き方を全面的に変えなければならなかった日本人。一度経験しているだけに、従来の価値観やライフスタイルをいったんリセットし、新たな生活を淡々と模索して、適当に妥協しながらコロナとの再出発を図る――そんなセンスや対応力、忍耐力
を私たちは十分に持ち合わせていそうです。
(-序-「日本人の“感染症観”」(3)に続く)


※1【倭国の朝鮮出兵と撤退】
 倭の統一国家・ヤマト王権も391年に朝鮮半島へ出兵し、任那を拠点に三国と交戦、百済・新羅を征服した。しかし、404年に高句麗・好太王の軍に敗れて半島から撤退し、高句麗側はその功業記念として「好太王碑(広開土王碑)」を丸都城(吉林省集安県通溝)に建立した。高さ6.15m、4面約1800字には倭の朝鮮出兵も記されている。

※2【中国の南北朝時代】
 北魏が五胡十六国時代の戦乱を収め、華北を統一した439年から始まり、隋が中国を再び統一する589年まで、中国の南北に王朝が並立していた。華南には宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡し、こちらを南朝と呼ぶ。

※3【公伝以前から仏教興隆に努めた司馬達等】
 6世紀初め、仏教公伝より先に日本に渡来し、仏教を崇拝した渡来人として司馬達等(しばたっと)が知られている。蘇我馬子と協力して仏教の興隆に努めた。飛鳥寺の造寺・造仏に優れた業績を残した仏師匠・鞍作止利(くらつくりのとり)は孫。

※4【大臣と大連】
 大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)は、古墳時代におけるヤマト王権の最高執政官として併設された。姓(かばね)の中で臣と連は最高位であり、それぞれの有力者が就任した。なお、大連は物部氏滅亡後、置かれなくなった。

※5【崇峻天皇弑逆事件】
 物部氏の没落で崇仏論争が決着し、崇峻天皇が即位したが、その後も蘇我馬子が政治の実権を握り、崇峻天皇は次第に不満を募らせていく。592年10月、猪を献上する者があったが、「いつかこの猪の首を斬るように、自分が憎いと思っている者を斬りたいものだ」と発言。そのことを伝え聞いた馬子は、部下の東漢直駒に命じて天皇を暗殺させ、ついでに駒も殺し、口封じした。
 天皇が殺害されたのは、確定している例では唯一という。死亡時にすぐ葬ったことや、陵地・陵戸がないのも他に例がないことから、天皇暗殺は馬子個人の策動ではなく、多数の皇族・群臣の同意を得た上での「宮廷クーデター」であった可能性を指摘する歴史学者もいる。

※6【飛鳥文化】
 推古朝を頂点として大和を中心に華開いた仏教文化。時期は一般的に、仏教渡来から大化の改新まで。中国の南北朝時代の文化が伝わって生まれた。 そのため、北魏の厳しい表現と、南梁の柔和な表現の2つを特徴とする。 大王家や各地の豪族は、古墳に代わり権威を示す場として、氏寺を建立した。
 
 
文:中岡裕次郎(オフィスなかおか)
参考文献:日本歴史探訪2・古代王国の謎(角川書店編:角川文庫)/病が語る日本史(酒井シヅ:講談社)/うめぼし博士の逆・日本史3(樋口清之著:祥伝社)/ブリタニカ国際大百科事典/世界大百科事典/国史大事典/朝日日本歴史人物事典/大辞林/旺文社日本史事典/山川出版社日本史用語集/Wikipedia等 




コメント

コメントの投稿

非公開コメント

Presented by

スポンサーリンク