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感染症で辿る日本史

感染症<序>0

 2020年3月11日(日本時間12日未明)、感染拡大が続く新型コロナウイルスについて、
世界保健機関WHOは「パンデミック(世界的流行)」を宣言しました。
世界中で猛威を振るい、大混乱を引き起こしている新型コロナ。一向に終息の気配をみせない未知の感染症への恐怖もさることながら、これから日本は、世界はいったいどう変わるのか……前途に立ち込めた霧に不安を感じない人はいないはず。
時代が大きな転換期を迎えようとするとき、人は取り残されたくない、生き残りたいという本能から動揺し、冷静な思考力を失うもの。そうしたパニック状態を鎮め、的確な判断や選択すべき行動のお手本の一つとなるのが「歴史」ではないでしょうか。
有史以前から、さまざまな感染症に苦しめられてきた人類。「人類の歴史は、感染症との闘いの歴史でもある」とさえいわれます。過去の日本人がその危機に瀕した際、どう対処してきたのか――先人たちの経験や知恵を辿りながら、今の難局を乗り超えるための手がかりをシリーズで探っていきましょう。まずは、日本人の心理に根づく“感染症観”を数回にわたり考察します。
 
 
 
(1)神話にみる疫病と天皇
 
弥生期から結核の洗礼を受けていた日本人
古来より人類が恐れてきたもの、それは地震・噴火などの自然災害や天候不順による飢饉、そして瞬く間に蔓延する伝染病(感染症)がまず挙げられるでしょう。なかでも伝染病は一つの文明をあっけなく消滅させたり、一国の社会構造を根底から覆したりするほど甚大な影響を及ぼすため、人々は長くその恐怖と苦悩に苛まれてきました。
世界の歴史を振り返ると、中世ヨーロッパではペストによって人口の3分の1にあたる3000万人が死亡し、20世紀初頭にパンデミックを引き起こしたスペイン・インフルエンザは世界中で5億人以上が感染、死者は5000万人~1億人にも達したといわれています。
第1次世界大戦の犠牲者は推計で1000万人、第2次世界大戦は5000万人、ナチスのユダヤ人虐殺は600万人であることを考えると、伝染病が戦争やホロコーストを凌ぐ大量死を招くことがおわかりでしょう(※上記の死者数は研究者によって諸説あり)
なお、今回の新型コロナウイルスの死者数521日午前4時時点のAFP通信社発表によると、世界で325232人に上っており、米国人は92500人を突破、ベトナム戦争における同国の犠牲者数5万8220人を大きく上回りました 
人類が誕生する以前から存在していたというウイルスと細菌。紀元前のエジプトのミイラからも天然痘や結核の痕跡が確認されており、「人類の歴史は、感染症との闘いの歴史でもある」という言葉がけっして過言でないことを伝えます。もちろん、古(いにしえ)の日本人も幾度となく疫病(伝染病)に翻弄され、見えない天敵と闘ってきました。
日本における疫病の歴史は、弥生時代からすでに始まっていたとみられています。2010年、鳥取県鳥取市にある弥生後期(約2000年前)の青谷上寺地遺跡(あおやかみじちいせき)の発掘調査で、日本最古となる結核症例のある人骨を発見。結核が原因で背骨が溶け、変形する脊椎(せきつい)カリエスの症状が認められました。
結核菌はもともと日本列島になく、稲作文化とともに中国から朝鮮半島を経て侵入した可能性が高いと研究者の間で指摘されています。近年、上海市の長江デルタ地域にある約5000年前の遺跡から、結核痕を留める東アジア最古の人骨が出土し、この仮説を裏づける発見として注目を集めました。稲作文化と関係が深いと目される結核。今後、その具体的な伝来ルートの解明がさらに進むと期待されています。
 
 
神々の祭祀で疫病を乗り切った崇神天皇
日本のもっとも古い疫病の記録は『古事記』(712年成立)と『日本書紀』(720年成立)にみられ、いずれにも古墳時代にたびたび疫病が流行し、3世紀後半の第10代崇神(すじん)天皇の治世には当時の人口が半減したという記述があります。疫病の詳細は明らかでありません。
古墳時代1は考古学的に3世紀中頃から7世紀末頃の400年間を指し、前方後円墳が盛んに造られた時代を意味します。この時期に倭の統一国家・ヤマト王権2が成立し、古代日本国家が形成されていきました。
崇神天皇は実在した可能性が高いとされる最初の天皇で、即位5年から7年にかけて疫病が流行、「人民つきなむとしき」(人民が全滅しそうになった)と古事記は記します。
即位6年のとき、崇神天皇は疫病による国内の不安は、神威の強い天照大御神(あまてらすおおみかみ)と倭大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ、大和大国魂神)を居所に祀っているからだと考え、2神を宮廷の外に移すことを決意。天照大神は自身の皇女・豊鍬入姫(とよすきいりびめのみこと)に託して、笠縫邑(かさぬいのむら:現在の檜原神社<奈良県桜井市>)に祀らせました。一方、倭大国魂神も崇神天皇の皇女・渟名城入媛命(ぬなきわかひめのみこと)に託し、長岡岬(奈良県天理市の長岳寺辺り)に祀らせましたが、渟名城入媛はまもなく髪が抜け落ち、からだが痩せ細って倭大国魂神を祀ることができませんでした。
なかなか疫病が治まらない即位7年、崇神天皇は「昔皇祖大いに聖業高く国は盛であったのに、朕の世になり災害が多い」と嘆き、その所以を亀卜(きぼく:亀の甲羅を使う占い)で見極めようと、神浅茅原(かむあさぢはら:現在の奈良県桜井市大字茅原という説もあるが不明)に八百万(やおよろず)の神を招いて占いました。すると、倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)が乗り移り、自分を祀るよう託宣しました。倭迹迹日百襲姫命は第7代孝霊(こうれい)天皇の皇女で、巫女的存在として知られることから、おそらく彼女が亀卜で占ったのでしょう。
崇神天皇はお告げに従い、すぐ祭祀を行いました。しかし、一向に霊験がありません。悲嘆した崇神天皇はさらに神意を伺おうと沐浴斎戒し、神床(かんどこ:神意を伺うための寝床)に伏しました。すると、夢枕に大物主大神が現れ、疫病が自らの祟りであることを語り、子孫の大田田根子(おおたたねこ、古事記では意富多多泥古)に自分を祀らせるよう告げたのです。
この出来事に続き、倭迹迹日百襲姫命、大水口宿禰(穂積臣遠祖)、伊勢麻績君(いせのおみのきみ)の三人もともに同じ夢をみて、「大物主大神と倭大国魂神の祭主をそれぞれ大田田根子と市磯長尾市(いちしのながおち:倭<やまと>氏の祖)にせよという神託を受けた」と報告しました。
これらの事象を受け、さっそく崇神天皇は大田田根子を探し出し、神主として三輪山に大物主大神を祀らせました。一方、市磯長尾市にも倭大国魂神の神主を命じ、長岡岬で祀らせました。すると疫病がたちまち収束して国は平安を取り戻し、五穀豊穣となって栄えた――と伝わっています。

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 ▲大物主大神が鎮まる三輪山(写真提供:一般財団法人奈良県ビジターズビューロー)。
 
 
疫病蔓延は天皇の失政に対する神々の怒りか
奈良県桜井市にある三輪山はなだらかな円錐形の山で、その美しい姿から古代より原始信仰(自然物崇拝)の対象として、人々の心の拠り所となってきました。その西の麓に大物主大神を祀る大神神社(おおみわじんじゃ)があります。山それ自身を御神体とするため、この神社には拝殿はありますが、本殿の建物はありません。古墳時代、奈良盆地東南部の三輪山麓一帯には、崇神天皇陵をはじめとする大型古墳が次々と築造されました。そうしたことから、ヤマト王権の初期拠点が三輪山にあったと考えられています。
市磯長尾市が祀った倭大国魂神の鎮座地はその後、長岡岬から現在の奈良県天理市に遷座し、大和神社(おおやまとじんじゃ)が創建されました。大和の地主神として信仰を集め、奈良時代には遣唐使が渡航の際、安全を祈願したと伝わっています。また、太平洋戦争時には戦艦大和の守護神として、艦内に神社の分霊が祀られました。
笠縫邑で祀られていた天照大御神も、豊鍬入姫が理想的な鎮座地を求めて各地を巡ることになります。さらにその役割は第11代垂仁(すいにん)天皇の皇女・倭姫命(やまとひめのみこと)に引き継がれ、およそ90年かけて現在の三重県伊勢市に鎮まりました。これが伊勢神宮創建の経緯です。なお、二人の皇女が伊勢に辿り着くまでに巡幸した地は20数か所に上り、一時的に天照大御神が祀られたという伝承を持つ神社や場所は「元伊勢」と呼ばれています。
 
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 ▲伊勢神宮・内宮 宇治橋(写真:オフィスなかおか)。
 
このように神々の祭祀で疫病を治め、危機を乗り切った崇神天皇。特に従来天皇と共殿共床にあった天照大御神、倭大国魂神を宮廷外に移すことで神人分離を行い、その神威を国内にあまねく広め、伊勢神宮の創始につながった功績は大いに注目されるでしょう。
その後、崇神天皇は四道(北陸・東海・西海・丹波)に将軍を派遣して勢力を広げる一方、初めて戸口を調査して民に課役を科すなど国家体制の礎を築いたことで、「御肇国天皇」(はつくにしらすすめらみこと)と称えられました。この「はつくにしらす」というのは、初代の神武天皇と同じ諡号(しごう:貴人の死後、生前の行いを尊んで贈る名)であることから、研究者の間で崇神天皇と神武天皇は同一人物、つまり「崇神天皇こそ初代天皇」という説が根強くあります。
古代社会において地震や干ばつ、疫病などの天災は、すべて神の祟りと考えられ、祟りを起こす神の存在を鬼や疫神に例えて恐れていました。その災い事を鎮めるべく、八百万の神々と人間との間を取り持ち、国家や国民に安寧と繁栄を祈る祭祀を司るのが天皇の役割でした。このため太古の人々は、疫病が蔓延するのは「天皇の失政に対する神々の怒りの現れ」と考えていたようです。
(-序-「日本人の“感染症観”」(2)に続く)
 
 
1【古墳時代】
日本の考古学上、弥生時代に続く時代。権力の象徴として盛んに古墳が造られた。前期……3世紀中頃~4世紀後半、中期……4世紀末~5世紀後半、後期……5世紀末~7世紀。1970年代前半頃までは「大和時代」と広く呼ばれていたが、その後、重大な古墳の発見など発掘調査・研究が進み、「大和」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切でないとの見解が現れた。これを受け、同時代の呼称は「古墳時代」が用いられるようになっている。
 
2【ヤマト王権】
古墳時代、倭国の王を中心に、有力な豪族が連合して成立した政治組織。拠点は現在の大阪平野や奈良盆地、九州(邪馬台国九州説)とする説がある。5世紀頃には九州から東北地方南部までを統一した。
ヤマト王権の盟主は古墳時代から飛鳥時代にかけて「王」(きみ)、「大王」(おおきみ、だいおう)等と称された。「天皇」表記の成立時期は、推古紀16年9月の条の「東の天皇、敬みて西の皇帝に白す。」とする説(推古天皇説)のほか、「皇后」の表記とともに飛鳥浄御原令において規定・使用されるようになった説(天武天皇説)の2つある。近年では後者が有力とされる。
なお、1970年代前半頃までは古墳時代を「大和時代」、政権を「大和朝廷」と広く呼ばれていたが、「朝廷」については天子が政務や儀式を行う政庁が原義であり、転じて「天子を中心とする官僚組織をともなった中央集権的な政府及び政権」を意味する。よって、「朝廷」を「天皇の政治の場」と定義した場合、4・5世紀の政権を「大和朝廷」と呼ぶことは不適切であり、第26代継体天皇以後の6世紀からに限って用いるべきという見解がある。
 
 
文:中岡裕次郎(オフィスなかおか)
参考文献:日本歴史探訪2・古代王国の謎(角川書店編:角川文庫)/病が語る日本史(酒井シヅ:講談社)/うめぼし博士の逆・日本史3(樋口清之著:祥伝社)/公益財団法人結核予防会機関誌「複十字」№334/伊勢神宮HP/大神神社HP/大和神社HP/ブリタニカ国際大百科事典/世界大百科事典/国史大事典/朝日日本歴史人物事典/大辞林/旺文社日本史事典/産経新聞(2019年2月5日ネット配信記事)/Wikipedia等 





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