語り継ぐ戦争<原爆>②
- 2019/04/05
- 13:30
6歳のとき、広島で原爆の惨禍に遭った小谷孝子さん(80歳)。倒壊した家の壁と柱の隙間にいたため、奇跡的にかすり傷で助かりました。2階にいた母も無事でしたが、祖母と姉、兄、弟が重症を負い、弟は4日後に息を引き取ってしまいます。
6年後、今度は一家を支えた母を原爆症で亡くしますが、残った家族と力強く生き、やがて幼稚園教諭になる「夢」もみつけました。
前途に希望を膨らませ、溌剌と暮らす小谷さん。しかし、快活な姿が裏目に出て、被爆による傷で差別に遭う友人たちから、きつい言葉を浴びせられます。以来、自身が無傷無病である罪悪感から、被爆体験を一切話さなくなりました。
その後、小谷さんは高校を卒業して上京し、幼稚園の先生になる夢を叶えます。そして、ある園児との出会いをきっかけに腹話術を習い、それが後の人生に大きな転機をもたらすことになりました。
今回は腹話術を習得し、心の奥にしまい込んだ被爆体験をあっちゃんと語り始めるまでを、小谷さんに話していただきます。
<全3回/第2回>
◆園児の笑顔をとり戻した「あっちゃん」
小谷さん :前回は、中学生のときに優しい友人のお母さんに憧れ、幼稚園の先生になる「夢」を持つまでお話しました。今回はその続きです。
中学卒業後、高校は定時制に入り、働きながら通いました。そして高校を卒業すると、思い切って上京しました。
あっちゃん:どうして、東京に行ったの?
小谷さん :広島にいるのが嫌だったから。広島では、いつもまわりで原爆や被爆の話をします。それを聞くのが辛かったの。
あっちゃん:そっかあ……。
小谷さん :東京では働きながら保育専門学校に通い、苦学のすえ、保育科を卒業。ついに憧れの幼稚園の先生になりました。
あっちゃん:頑張ったね!
小谷さん :そして、日々意欲を持って幼稚園で働き、やがて結婚、3人の子どもに恵まれました。「被爆者は子どもがもうからない」といわれていたから、とっても嬉しかったわ。
あっちゃん:よかったね!
小谷さん :千葉県八千代市で暮らし始めたのは昭和45年からのこと。その頃、「千葉県原爆被爆者友愛会」に入りました。
幼稚園のお仕事は、子どもが小さい間はしばらくお休みし、いくらか育ったところで復帰しました。そのときにある園児と出会い、腹話術を習い始めたんです──。
その園児は、私が担任した5歳の男の子。幼稚園に入園する前、大好きなおじいちゃんを亡くし、以来、心を閉ざしていました。
幼稚園に来ても席に座らず、誰とも遊ぼうとせず、外ばかりぼんやり眺めている……。この子の心を何とか開かせてあげたい。そう思って、いい方法がないか考えていたとき、ある保育雑誌の記事に目が留まりました。それは、小児科のお医者さんが子どもに注射を打つ際、お人形を使って、腹話術で『痛くない、痛くない』と話しかけて恐怖を取り除き、治療する内容でした。
「これだ!」と思い、すぐ雑誌で紹介されていた腹話術の研修会に申し込みました。それが1974(昭和49)年7月のことです。
腹話術の師匠は、神奈川県川崎市の新丸子町にあるキリスト教会の牧師さん。腹話術を世の中のために使いたい人なら誰にでも教えていて、交通安全指導で活用したい警察官、教訓などを親しみやすく話したいお坊さんなど、さまざまな方が弟子になっていました。
腹話術の研修会は伊豆で行われ、師匠から厳しく指導されました。例えば、「テニックだけで腹話術をやったのでは、いくら楽しい内容でも、見る人は心からの笑顔にならない」「心を込めて、まず人格を磨きなさい」など。これらの教えは腹話術に限らず、その後の人生にも大きな影響を与えたことは、いうまでもありません。
研修を受けてから1カ月後、腹話術用の人形が届きました。人形は師匠の弟子みんなに贈られるもので、全員「5歳児」の設定です。5歳児ならものごとがわかり始め、好奇心も芽生えてくるだろうという師匠の考えに基づいています。私はいただいた人形に、当時3歳だった長男の名前「あっちゃん」をつけました。
そして、さっそく幼稚園であっちゃんを紹介し、彼に出席をとってもらいました。そうしたら、みんな大喜び。問題の子もふっと、顔を向けてくれました。
それから毎日あっちゃんに出席をとってもらっていたら、いつの間にかその子が席に着くようになって、笑顔もみせてくれるようになりました。あのときの感激は、今でも忘れないです。
◆「罪悪感」を「使命感」に代えて
小谷さん :男の子、心を開いてくれて嬉しかったね。
あっちゃん:大成功だったね!
小谷さん :当時、私は30代。あの出来事があって、今の自分があると思っています。
あっちゃん:そうだね。
小谷さん :幼稚園の先生は定年退職するまで続け、その後、腹話術の活動に力を入れていきました。そして平成15年の夏、広島市で行われた腹話術の全国大会に出場。そのとき、師匠に背中を押され、二度と語るまいと決めていた被爆体験を話すことになったのです。
2003(平成15)年7月、腹話術の全国大会が広島市で開催されました。会場は広島平和記念資料館※1のホール。なにか、とても因縁めいたものを感じました。
その全国大会の前のことです。師匠が誰かからか、私が被爆者であることを聞き、当日あっちゃんと被爆体験を話すようおっしゃいました。師匠は平和をとても大切にされていて、
「あなたは被爆者なんだから、あの悲惨な出来事を風化させてはいけない。体験したことを、あっちゃんと一緒に語りなさい」
と、私の背中を押してくれたんです。
しかし長い間、ずっと心の奥にしまい込んであったものだから、話すのが辛くて仕方ありません。悩みに悩んだ末、原爆症でとても苦労した姉に相談しました。そうしたら、姉にいわれました。
「私は大やけどして、今日死ぬか、明日死ぬかという毎日だった。だけど、あなたは元気だったから、まわりがどんなだったか、みていたでしょ。あなたの目の前で、たくさんの人が死んでいったでしょ。その人たちの無念な思いを伝えていくために、あなたはみなさんから健康な体や命をいただいたのよ。だから語っていきなさい。それが、あなたの使命よ」
この言葉を聞き、「ああ、そうか。私にも、まだできることがあったんだ」と改めて気づきました。そして、これまで抱いてきた「罪悪感」を「使命感」に代え、被爆体験を語るようになったのです。
でも、初舞台となった広島での全国大会は、あっちゃんとではなく、一人で話しました。千葉に帰り、本格的に被爆証言の活動を開始してからも、一人で写真や絵を使って話していました。
師匠からはあっちゃんと一緒に語るよう、度々促されます。でも、どうしても、あっちゃんと話す気にはなれなかったのです。
▲今年1月10日、千葉県八千代市の萱田小学校での被爆証言にて
※1 広島平和記念資料館
広島平和記念公園(広島市中区)敷地内にある博物館。「原爆資料館」とも呼ばれる。広島での原爆の惨状を伝え、核兵器のない平和な世界の実現に貢献する目的で1955年に開館した。東館と本館からなり、東館には原爆投下までの広島市の歴史や原爆投下の歴史的背景を写真や映像、模型等で解説。本館では、原子爆弾の人的・物的被害に関する展示が行われている。
<コラム~「嵐の中の母子像」>
「原爆資料館」と同じく、広島平和記念公園内に建立されている「嵐の中の母子像」。右手で乳飲み子を抱え、左手で幼児を背負おうとしながら、前かがみの姿勢で力強く生き抜こうとする母の姿を表現。核兵器廃絶への限りない努力を呼び掛けている。1960年8月5日、広島市婦人会連合会により建立。制作者である彫刻家の本郷新氏(1905年12月9日~1980年2月13日)は、「わだつみの像」など人間愛に満ちた像を多く残す。
◆あっちゃんと一緒に
あっちゃん:どうして、僕と話してくれなかったの?
小谷さん :自信がなかったの。技術的にも、精神的にも。どのようにあっちゃんと向き合っていいか、わからなかったの。
あっちゃん:そうかあ……。
小谷さん :弟や母が亡くなった話になると、もう、こみあげてくるんです。涙が出てきちゃって、とてもあっちゃんと話せる状態になれなかったの。
あっちゃん:辛かったね……。
広島市で初めて被爆体験を大勢の人たちの前で語り、八千代市に戻ってから本格的に活動を開始。さっそく、知り合いの小中学校の先生を訪ねて回りました。でも、最初の頃はなかなか機会が訪れず、学校での被爆証言は05(平成17)年になってようやく1校。その後、2校、3校と、ちょっとずつ増えていきました。
体験を語る際は相変わらず一人で、写真や絵を使っていましたが、弟と母が亡くなった話になると、どうしても涙が我慢できなくなります。こんな感じで話していいのか、子どもたちが夜眠れなくなりはしないかと悩んだことも度々。その間も師匠は「まだ、あっちゃんと話せないのか?」と、何度も尋ねてきます。
そして10(平成22)年の8月6日、千葉県庁で被爆証言をすることになり、今度は友愛会の方からも「腹話術で話してほしい」という要望が寄せられました。……とても困りました。技術力もさることながら、気持ちを昂らせず、落ち着いて話す自信がどうしてもありません。
そんな私の困惑ぶりをみて師匠が、「平和を語るのにテクニックはいらないんだよ」とおっしゃってくださいました。そして、あっちゃんとの腹話術のやり取りについて、
「亡くなった弟と話すように向き合って、あっちゃんは『そうか』『痛かったね』『辛かったね』というだけでいい。あっちゃんに、お話を聞いてもらうようにやりなさい」
というアドバイスくださったのです。
「なるほど、弟と話す感じでやればいいんだ」
目の前がパッと開けました。もし、弟が生きていたら、「こんな平和な世の中になったのよ」って、いろんなところへ連れていってあげたい。あれも、これもみせてあげたい──。
「辛いときはあっちゃんが助けてくれるよ。謙虚な心で頑張りなさい」と師匠に励まされ、初めてあっちゃんと臨んだ県庁での被爆証言。どうにか、二人で乗り切ることができました。
その後、当日の様子が地元テレビ局や新聞各社で報道され、私たちのことが県内に広く知れ渡りました。それに伴って証言の依頼も増加し、あっちゃんと出歩く機会が多くなりました。
実はあっちゃんと被爆体験を語るまで、弟の顔も、どんなお世話や遊びをしたかも、知らず知らずに忘れていたんです。でも、今は弟がずっと私のそばにいるように感じて、服の着替えを手伝ってあげたことや、砂遊びをしたことなど、いろいろ思い出せるようになりました。不思議ですね(笑)。
(「戦争を語り継ぐ<原爆>③」に続く/次回はピースボートの船に乗って世界で被爆証言、
<千葉県原爆被爆者 友愛会>
「千葉県原爆被爆者 友愛会」は千葉県在住の生存「広島原爆被爆者」「長崎原爆被爆者」およびその二世を会員とし、会の活動に理解ある方々を賛助会員とする、無宗教、無政党での核兵器廃絶を願う平和団体です。
・全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(略称:日本被団協)」傘下団体
・通称:「友愛会」または「千葉県友愛会」
所在地:千葉市稲毛区轟町1-4-23 ラハイナハウスⅡ-101号室
TEL/FAX:043-253-7768
e-Mail:yuaikai@oasis.plala.or.jp