語り継ぐ戦争<原爆>①
- 2019/03/22
- 10:30
1945(昭和20)年8月6日、広島市に原子爆弾が投下されました。人類史上初めて、核兵器が戦争で使われたのです。そして3日後の9日、今度は長崎市にも……。
パッと目の眩む閃光が走った刹那、街は一瞬にして消滅し、広島・長崎の両市合わせて21万人以上もの尊い命が奪われました。かろうじて生き残った人たちも、脳裏に焼きついた阿鼻叫喚の地獄絵図と放射線による後障害で、未だ死の恐怖と苦痛にさいなまれ続けています。
あれから74年――。被爆者の平均年齢は80歳を超えました。第二次世界大戦の苦難を知る人が少なくなる中、原爆や戦争の記憶は薄れ、核の拡散は進み、軍事化を容認する動きさえみられます。
そうした危うい流れを断ち切り、核兵器による凄惨な過去を二度と繰り返さないよう、広島での被爆体験を証言する小谷孝子さん(80歳)。幼稚園教諭時代に修得した腹話術を駆使し、相棒の「あっちゃん」とともに、原爆の悲惨さや平和の尊さを子どもたちに伝えています。
16年前から始めた証言活動は次第に注目を集め、地元の千葉県八千代市から日本各地へ、世界各国へと広がってきました。そんな小谷さんに今回は本サイトを通じ、被爆時の状況や腹話術との出合い、現在の活動状況などを、あっちゃんと一緒に語っていただきます。
<全3回/第1回>
◆「ピカドンが落ちた」
小谷さん :みなさん、こんにちは。
あっちゃん:こんにちは!
小谷さん :今回はこのサイトを通して、私が小学校1年生のときに体験した原爆のこと、あっちゃん(腹話術)との出会い、そして、なぜ被爆証言を始めたかなどをお話します。
あっちゃんも、みなさんと一緒に聞いてね。
あっちゃん:はい!
小谷さん :ところで、あっちゃんはいくつ?
あっちゃん:5 つ。
小谷さん :そう、5つなの。私が5つのとき、日本は戦争をしていました。「第二次世界大戦」といってね、世界中が戦争をしていたの。
あっちゃん:そうか、知らなかった。
小谷さん :そして5つのとき、父が病気で亡くなりました。
あっちゃん:かわいそう……。
小谷さん :父は海軍の軍人だったの。だから私たち家族は、海軍の拠点があった広島県呉市に住んでいました。でも、父が亡くなり、広島市内の父の実家に祖母が一人住んでいたので、みんなで祖母の家に引っ越しました。それが昭和20年3月、私が6つのときです。
そして4月に国民学校に入学し、8月6日、広島市に原爆が落ちたのです。そのときのお話です――。
私たちが引っ越した父の実家は、広島市の皆実町にありました。爆心地から約2.5キロの距離です。家族は母と祖母、4つ上の姉、2つ上の兄、3つ下の弟、そして私の6人家族でした。
父を失ってから一家を支えたのは母。本当に一生懸命頑張ってくれました。それでも生活は大変で、食料の配給も次第に少なくなり、田舎の親せきを頼って疎開することになったんです。それがたまたま、8月6日のお昼に決まりました。
6日の朝はとてもいいお天気で、戦争中とは思えないくらい静かでした。7時過ぎに一度、空襲警報のサイレンが鳴りましたが、すぐ解除になり、みなさん、仕事や勤労奉仕に出かけました。
私たち兄弟もお昼まで時間があるので、裏の川で泳ごうと4人で駆け出しました。向かった先は瀬戸内海に流れる京橋川。広島市は川が多く、泳いだり、魚を釣ったり、海苔を採って食料の足しにする人が多くいました。
青い空の下、私たちが元気よく駆けていると、飛行機の音が聞こえてきました。
「B29かね?」
みんな不安になりましたが、すぐ行ってしまったので、「大丈夫よ」と、また駆け出しました。でも、私は喉が渇いたので、一人、家に引き返しました。
「B29かね?」
みんな不安になりましたが、すぐ行ってしまったので、「大丈夫よ」と、また駆け出しました。でも、私は喉が渇いたので、一人、家に引き返しました。
そして、台所で水を飲んでいたときです。突然、窓ガラスがピカッと光り、ドーン!というものすごい音とともに家が壊れ、下敷きになりました。
……どれくらい経ったでしょう、母が私たちの名前を必死に呼んでいます。母は2階で疎開の準備をしていたのです。
……どれくらい経ったでしょう、母が私たちの名前を必死に呼んでいます。母は2階で疎開の準備をしていたのです。
「お母ちゃん、助けてー!」
私の声に気づき、母が助けてくれました。幸いなことに、私は倒れた壁と柱の隙間にいたので、かすり傷ですみました。
でも、這い出てきたとき目にしたのは、さっきまでとは全然違う、まるで地獄に堕ちたような光景でした。
広島市内は火の海です。逃げ惑う人たちは、ほとんどが大やけどを負い、皮膚が垂れ下がって、お化けのように手を前に出しています。
みんなゾロゾロ逃げてきて、それを呆然とみている私に近寄り、「水ちょうだい」「助けて」と手を差し出します。そして、バタバタと死んでいきました。私はただただ怯え、立ちすくんでいました。
いったい何が起きたのか、そのとき誰も、まったくわかりませんでした。大人たちは、ピカッと光ってドーンという音がしたから、「ピカドンが落ちた」といっていました。原子爆弾※1が落ちたとわかったのは、だいぶん経ってからのことです。
広島市に落とされたのはウラン爆弾で、「リトルボーイ」と呼ばれました。そして3日後の8月9日、長崎市にプルトニウム爆弾「ファットマン」が落とされたのです。
※1「原子爆弾(atomic bomb)」とは
ウランやプルトニウムなどの原子核分裂反応を使用した核爆弾。初めて実用化された核兵器である。第二次世界大戦下においてドイツ、日本、アメリカ合衆国、イギリスなどで開発が行われた。
広島に投下されたのはウラン235爆弾で、コードネームは「リトルボーイ」(少年)。長崎はプルトニウム239爆弾、「ファットマン」(太った男)。「リトルボーイ」というネームの由来は、開発当初の設計寸法よりも小さくなったためとされる(※異説あり)。
広島と長崎でそれぞれ違う原爆が投下されたのは、全く異なる構造の新型爆弾の破壊力を実験するためであった。
▲原子爆弾図解(左:広島型のウラン爆弾、右:長崎型のプルトニウム爆弾)
<コラム~原爆の被害>
原爆の被害は「熱線」「爆風」「放射線」の3つ。
「熱線」は爆心地で3000〜4000度。熱線を浴びた人は体内の臓器まで焼け、ほとんどがその瞬間か数日後に死亡した。
「爆風」は爆心地あたりで1㎡あたり35トン。ちなみにアフリカ象1頭が同7トンぐらい。原爆が破裂した瞬間、熱線や放射線を浴びる前に爆風で吹き飛ばされ、命を落とす人が大勢いた。アメリカ軍は原爆の威力として、当初放射能の影響より、爆風で人々を殺傷することに主眼を置いていたという説もある。
「放射線」は核兵器の最たる特徴。人体の奥深くまで入り込み、細胞を壊し、血液を変質させるとともに、骨髄などの造血機能を破壊し、肺や肝臓等の臓器に深刻な障害を及ぼす。爆心地から1km以内で直接放射線を浴びた人たちは、ほとんどが死亡した。また、けがをしなかった人や爆心地付近で救護活動をしたり、肉親・知人を捜した人たちも残留放射線を浴び、その後死亡するケースが相次いだ。
なお、原爆により発症した病気を「原爆症」といい、現在約20万人が医療費の自己負担分が免除される被爆者健康手帳を持っている。
◆3歳の弟の死、そして終戦
あっちゃん:原爆、こわいよう……。
小谷さん :戦時中は爆弾が落ちて火事になったら、すぐ火を消せるように、どの家も「防火用水」という水槽があったのね。逃げてきた人たちはみんな、そこに頭を突っ込み、折り重なるように亡くなったの。裏の川にも、体が熱いのと、喉の渇きで飛び込んだ大勢の方の遺体が浮かんでいました。
あっちゃん:どれだけの人が死んだの?
小谷さん :広島市で14万人、長崎市で7万人もの方々が亡くなったのよ。
あっちゃん:一緒に川へ泳ぎに行ったお姉ちゃんやお兄ちゃん、弟、そして、おばあちゃんは?
小谷さん :みんな被爆し、大やけどや大けがを負いました……。
母は家の下敷きになった私を助け出した後、すぐ家族を探しにいきました。そして、姉と兄を連れて戻ってきましたが、姉は全身大やけど。兄は家の影にいたので熱線を浴びず、やけどはしませんでしたが、爆風で飛んできたガラスが頭や顔に突き刺さり、血だらけでした。
母は私に二人をみているようにいい、今度は弟を探しにいきました。でも、3歳児ですから爆風で吹き飛ばされ、なかなかみつかりません。ようやく捜し出し、連れて帰った弟の顔は真っ黒。母が自分の洋服で顔を拭いたら、ズルッと皮膚がむけて垂れ下がりました。
原爆の熱線は3000~4000度といわれています。100度の熱でも大変なやけどになるのに……。どんなに熱く、痛かったことでしょう。
祖母もやはり、全身やけどで帰ってきました。原爆が落ちたとき、近所の人と立ち話をしていたそうです。
被爆から4日目、8月10日の朝、意識のなかった弟がやっと目を覚ましました。母がそっと口に水を含ませると、「お母ちゃん、飛行機、恐ろしいねぇ……。お水、美味しいねぇ……」。
この言葉を残し、弟は3歳で亡くなりました。
末っ子で、可愛らしかった弟。すぐ上の私が一番よく面倒をみて、一緒に遊びました。その弟が亡くなったのです。救いようのない喪失感や悲しみ、惨さを、私は6歳ながら強烈に感じました。
暑い夏ですから遺体の傷痕はすぐに膿み、ウジがわいてきました。そのため、火葬場にも連れていくことができず、母は自分で弟を火葬しました。涙ひとつ流さず……。
母は、私がそばで立ってみていたから、涙を流さなかったのだと思います。だけど、自分の子どもを自分の手で火葬した残酷な体験は、どれほど深い悲しみや苦しみを母に与えたことでしょう。誰もいないところで、どんなに泣いたことでしょう。母の辛さを思うと、胸が張り裂けそうになります。
そして8月15日、日本は降伏し、戦争が終わりました。
あっちゃん:もっと早く、もっと早く……ねぇ。
小谷さん :そう、もっと早く戦争をやめていれば、北海道から沖縄までの何百万人もの人の命が奪われずにすんだのです。
あっちゃん:戦争はいやだ!
小谷さん :そうね。戦争は二度と、絶対にしてはいけないね。
小谷さん :戦争が終わると、学童疎開に行っていた子どもたちが広島市内に帰ってきました。
あっちゃん:学童疎開ってなに?
小谷さん :国民学校の3年生から6年生までの生徒が、先生と一緒に田舎で暮らすことよ。
あっちゃん:どうして、そんなことしたの?
小谷さん :それは子どもの命を守るためだったの。戦争が激しくなって、都会には食べ物がありませんでした。爆弾も、いつ落ちてくるかわかりません。それで、子どもたちは先生と田舎へ避難していたの。
あっちゃん:大変だったね。
小谷さん :大変だったと思います。その疎開していた子どもたちが、戦争が終わり、戻ってくることになりました。「ああ、やっとお父さん、お母さんに会える」と、どの子も喜んで帰ってきたの。だけど、ほとんどの子が家族をなくし、「原爆孤児」になったんです。
あっちゃん:かわいそう……。
小谷さん :疎開によって子どもたちの命は助かったけど、両親をなくした子は自分の力で生きていかなければなりません。そこで瀬戸内海の似島(にのしま)※2というところに、原爆孤児のための保護施設※3がつくられました。
※2 瀬戸内海の広島湾に浮かぶ「似島」
広島市最南端(行政区分:南区似島町)に位置する市内で最も大きい島。1895(明治28)年から1945(昭和20)年の第二次世界大戦直後まで陸軍の検疫所が置かれ、原爆投下後は臨時の野戦病院として使用された。約1万人もの被爆者が似島へ運ばれ、島に埋められた死亡者を悼む慰霊碑も設置されている。
※3 原爆孤児等の保護施設「似島学園」
1946(昭和21)年、似島にあった陸軍の検疫所跡地に、原爆投下による戦災孤児や戦災浮浪児の保護を目的に設立された。1948(昭和23)年、児童福祉法に基づく児童養護施設として認可され、1952(昭和27)年に社会福祉法人「似島学園」と改称。1966(昭和41)年より知的障害者施設高等養護部も併設している。
終戦後、母は家族の食べ物や薬を求めて、毎日焼け跡を駆け回っていました。それでも時間をつくり、似島に渡って施設の子どもたちのお世話をしていました。
一方、私はやけどをせず、病気にもならず、一人元気だったので、全然母に構ってもらえません。それである日、我慢できなくなって、「よその子の世話をせんと、私の世話をして!」と、泣きながら頼んだのです。そうしたら、母はこういいました。
「わがままをいいなさんな。あんたたちは夜になったら、お母ちゃん、帰ってくるでしょう。島にいるあの子たちはもう、なんぼ待っても二度と親は帰ってこんのよ」
そして、「どんな大変なときでも、自分のことだけでなく、人のことも大切にできる心の豊かな人になるのよ」と教えてくれました。
その母は6年後、私が小学6年生のとき、原爆症による白血病で、43歳で亡くなりました。この言葉は、母が短い人生の中で私に遺してくれた形見です。ずっと大切に、忘れずに生きてきました。
あっちゃん:孤児になったの?
小谷さん :うん。でもね、私には祖母がいて、姉がいて、兄がいて、家族4人で力を合わせて生きてきたの。姉は定時制高校に通い、昼間働きました。兄は新聞配達。私は中学校が終わると美容院で働き、祖母が家事をしてくれました。
あっちゃん:おばあちゃんやお姉ちゃん、お兄ちゃんのけがは?
小谷さん :祖母と姉は全身やけどの痕がケロイドになり、その後、肺がんや肝臓がんを患うなど、放射線の後遺症に苦しみました。兄は脳にも小さなガラスが残り、そうした破片を取り除く手術を何度も受けました。それでもみんな、しっかり前を向いて生きたのよ。
あっちゃん:えらいね。
母が亡くなり、やはり、しばらく落ち込みました。けれども、中学1年生のとき、友人のお母さんがとても優しくしてくださいました。「ごはん、ちゃんと食べてる?」「何か困ったことない?」と、いつも気にかけ、励ましてくださって。
友人のお母さんは幼稚園の先生でした。そのことが似島の施設で子どもたちの面倒をみていた母と重なり、「私も大人になったら、幼稚園の先生になろう」と「夢」を持ったんです。戦争がないと「夢」が持てる。そんな当たり前のことが、当時の私にはとても新鮮でした。
幼稚園の先生になろう! 自分の夢を持ってから、とにかく明るく生きようと、いつも笑顔で元気に生活するようになりました。
ところが、そんな私を快く思わない人たちもいました。被爆でケロイドだらけになり、差別に遭ったりした友達などです。彼女たちは、「あなたは私たちみたいにケロイドがあるわけでもなく、病気をしているわけでもない。幸せだからニコニコしていられるのよ」といいました。
ショックでした。泣きたくなるほど悲しかった。なぜ、明るく生きたらいけないのかしら。でも、元気で病気にもならない私も、周囲に対する配慮が少し足らなかったのでは……。いろいろと迷いが生じ、次第に罪悪感が募っていきました。そして、「たとえ被爆者であっても、私が原爆を語ってはいけない」と思い始めたんです。
それからは、原爆や被爆のこと一切を心の奥にしまい込み、二度と話すまいと決心しました。
(「戦争を語り継ぐ<原爆>②」に続く/次回は腹話術との出合い、
被爆証言を始めるまでの葛藤などを、小谷さんに語っていただきます)
被爆証言を始めるまでの葛藤などを、小谷さんに語っていただきます)
<千葉県原爆被爆者 友愛会>
「千葉県原爆被爆者 友愛会」は千葉県在住の生存「広島原爆被爆者」「長崎原爆被爆者」およびその二世を会員とし、会の活動に理解ある方々を賛助会員とする、無宗教、無政党での核兵器廃絶を願う平和団体です。
・全国組織「日本原水爆被害者団体協議会(略称:日本被団協)」傘下団体
・通称:「友愛会」または「千葉県友愛会」
所在地:千葉市稲毛区轟町1-4-23 ラハイナハウスⅡ-101号室
TEL/FAX:043-253-7768
e-Mail:yuaikai@oasis.plala.or.jp