心の健康を探る①
- 2019/02/21
- 15:00
高齢者から子どもまで、年齢や性別、障がいの有無を問わず、誰もが気軽に楽しめる生涯スポーツ。その象徴として、「グラウンド・ゴルフ」を思い浮かべる人はきっと多いのでは?
本サイトでも昨年6月、大阪体育大学の細川磐名誉教授(『細川磐のグラウンド・ゴルフ読本』著者:文庫/オフィスなかおか刊)のご協力を得て特集※を組みました。
本サイトでも昨年6月、大阪体育大学の細川磐名誉教授(『細川磐のグラウンド・ゴルフ読本』著者:文庫/オフィスなかおか刊)のご協力を得て特集※を組みました。
国の生涯スポーツ推進事業を受け、グラウンド・ゴルフが鳥取県の泊村(現湯梨浜町)で誕生したのは今から37年前、1982年のことです。翌年「日本グラウンド・ゴルフ協会」が設立され、初代会長にオリンピック金メダリスト(1932年ロサンゼルス大会)の南部忠平先生が就任。細川先生など学識経験者も加わり、本格的な普及を開始しました。
そうした錚々(そうそう)たる先達と行動を共にし、グラウンド・ゴルフの発展に尽くしたのが日本協会の初代事務局長で理事も務めた戸塚眞佐子さん(76歳)です。
そうした錚々(そうそう)たる先達と行動を共にし、グラウンド・ゴルフの発展に尽くしたのが日本協会の初代事務局長で理事も務めた戸塚眞佐子さん(76歳)です。
協会発足後しばらく、たった一人の事務局員として南部先生をサポートし、間借り状態だった事務所の移転や活動費捻出に奔走した戸塚さん。機関誌の発行、普及ビデオの制作なども手掛け、協会の法人認可取得にも大きな役割を果たしました。
今回はそんな戸塚さんにグラウンド・ゴルフ草創期の思い出や印象に残る人・出来事、学んだ人生観など、自由に語っていただきます。
<全2回/第1回 ※関連記事:「グラウンド・ゴルフの魅力を探ろう!」(①2018.6.7、②2018.6.15、③2018.6.26公開)>
◆事務局に入ったその日が協会発足日!?
鳥取県の泊村で開発されたグラウンド・ゴルフ。高度な技術を必要とせず、ルールも簡単で、誰でもすぐに楽しめることから、新聞・テレビなどマスコミ各社がこぞって報道し、全国で広がり始めました。こうした状況を受け、国民的スポーツにしようという機運が高まります。その推進役を担うべく設立されたのが「日本グラウンド・ゴルフ協会」。戸塚さんの人生にも大きな転機をもたらしました。
都庁の非常勤職員として働いていたある日、半年ほど前に定年退職した元上司が私を訪ねて来られました。「うちの団体の職員にならないか?」って。その人は定年後、全国体育指導委員連合(現全国スポーツ推進委員連合、以下「体育指導委員」)の事務局長をされていて、女性職員が辞めるから、人員補充で私をスカウトに来たんです。
そのときは、まだ非常勤の契約期間が残っていたからお断りしたんですけど、それから何度も説得に来られて。実は元上司とは結構ケンカしていました。私、はっきりものをいうから(笑)。でも、日頃の働きぶりを、よくみていたんでしょうね。あんまり熱心に誘ってくださるんで、職場の人たちに相談してみました。すると、「正職員として雇ってくれるんだから行くべき!」って、みんな背中を押してくれたんです。それで体育指導委員へ移る決心をしました。
ところが、初出勤で事務局のある岸記念体育会館に行くと、日本グラウンド・ゴルフ協会(以下「日本協会」)の設立総会があって、いきなりそれに出席することになりました。つまり、事務局に入ったその日が日本協会の発足日※1だったんです。事前にそのようなことを聞いてなかったし、三段跳びの金メダリストで有名な南部先生※2を始めとする偉い先生方が会議室にズラーッといるから、圧倒されて、まさに「ええーっ!」って感じ。ほんと、わけがわからなかった(笑)。
その後、グラウンド・ゴルフが国の事業で開発されたこと、そして日本協会の事務局を体育指導委員の事務局内に置き、業務も兼ねることを知りました。
高齢者が楽しむスポーツといえば、当時ゲートボールがすごく人気でした。でも、5対5で競うチームスポーツだから、技術によってチーム内で序列ができたり、下手な人がいじめられるなど、人間関係のトラブルが問題になっていた。そこで文部省(現文部科学省)が、「高齢者に相応しいスポーツを新たにつくろう」と音頭を取り、考案されたのがグラウンド・ゴルフです。
私は幼い頃から、「誰かのために頑張りたい!」という気持ちが人一倍強い方でした。ミッション系スクールの日曜学校に通っていたから、キリスト教の精神が私の根本にあるのかもしれません。また、父がボランティアに熱心だったので、その影響も色濃く受けたかも。だから、新しい仕事に不安はあったけど、グラウンド・ゴルフで「人の役に立つ働きができる」とファイトが湧いたのを覚えています。
※1【日本グラウンド・ゴルフ協会】
※2【南部忠平先生(1904年5月24日生~1997年7月23日没)】
北海道札幌市出身の陸上競技選手で、走り幅跳びの元世界記録保持者。1932年の第10回ロサンゼルス五輪では、三段跳びで金メダル、走り幅跳びで銅メダルを獲得した。1983年、日本グラウンド・ゴルフ協会設立とともに初代会長に就任。以降、1996年までの永きにわたり、グラウンド・ゴルフの普及に尽力し、その発展の礎を築いた。
▲現役時代の南部先生(wikipediaより)
◆草創の苦難を南部先生と乗り越えて
日本協会発足当初、わずか300人だった会員も次第に増え、5年後に全国規模の大会が企画されました。開催場所はグラウンド・ゴルフ発祥の地である鳥取県泊村の小学校グラウンド。大会名は「全国グラウンド・ゴルフ交歓大会」と名づけられ、大成功を収めます。これを契機に会員が飛躍的に増加していきますが、そこに至るまでの草創の苦難を、戸塚さんは南部先生と二人三脚で乗り越えていきました。
日本協会発足後、しばらく全国体育指導委員連合の事務所を間借りしていましたが、やはりそのままではいけないという話になり、2年後の85年5月、渋谷区神宮前に事務所を移転しました。そのときにスカウトしてくれた元上司から離れ、私は日本協会の「一人事務局員」になりました(笑)。だから、引越しの作業も一人きり。荷物は段ボール箱1個と書類だけだったけど、やっぱり大変でした。
事務所の机やキャビネットは、グラウンド・ゴルフの用具開発で協力関係にあったアシックスさんが提供してくれました。備品を揃える予算が乏しかったから、すごく助かったのを覚えています。あとは応接テーブルを自力で用意して、なんとか事務所の体裁を整えました。
また、知り合いの業者からガリ版印刷器を安く譲ってもらい、その年の10月から会員向けの機関誌『グラウンド・ゴルフだより』を発行しました。鉛筆の手書きをコピーしたB4サイズで、創刊号の発行部数は50部。ささやかな新聞だったけど、文章を書くのが好きだったからとても嬉しかったですね。
グラウンド・ゴルフのルールブックが発行されたのは87年4月のこと。初期の本には南部先生の写真が掲載されていたんですよ。
日本協会が発足したばかりの頃は、ほとんど南部先生と二人きり。グラウンド・ゴルフの普及活動も、先生のお供で全国を一緒に歩き回りました。「南部忠平」といったら「三段跳びの金メダリスト」で有名だったから、各地でサインを求める行列ができるんです。それはもう、100人以上の人がわーっと並んで。あんまり大変なときは、「戸塚、手伝ってくれる?」なんて冗談をいうこともありました(笑)。でも、やはり真面目な方だから、一人ひとり丁寧にサインしていましたね。
南部先生はオリンピックで金メダルをとったり、昭和の東京五輪で日本陸上チームの監督をしたり、大学の学長を務めたりとすごい人だったけど、穏やかで謙虚な人でした。全然威張っていないの。そのような人柄を慕って、会員が増えていったのは確かですね。私も「グラウンド・ゴルフの普及のためにも、先生をしっかり支えよう」と、強く心に誓いました。
▲前列左が南部先生、その横の後列左が戸塚さん
日本協会発足から5年目の88年8月、第1回全国グラウンド・ゴルフ交歓大会が鳥取県泊村の小学校グラウンドで行われました。会員が増えてきたことを受け、会員同士の交流の輪を広げてもらおうと企画したものです。大会の名称は会場で検討され、グラウンド・ゴルフの趣旨に相応しく「交歓大会」に決まりました。
でも、当時はまだ用具があまり売れてなくて、どれだけ人が集まるかわかりませんでした。「県外からの参加人数が、地元(鳥取県)の250人を超えることはないのでは」と悲観する声も聞かれました。
私は本番3日前から現地入りして、泊村の会員さんたちと一緒に準備をしました。会場となる小学校グラウンドの芝生は完ぺき。大会に備え、学校が大切に育ててくれていたんです。
「参加する方々に楽しくプレーしてもらいたい。グラウンド・ゴルフで楽しい思い出をいっぱいつくってもらいたい」。そう念じながら、精一杯努力しました。
「参加する方々に楽しくプレーしてもらいたい。グラウンド・ゴルフで楽しい思い出をいっぱいつくってもらいたい」。そう念じながら、精一杯努力しました。
そして迎えた大会当日、県外から500人超の会員が駆けつけました。
本当に驚いた! だって大方の予想を覆し、750人もの人が集まったんだもの。大会は雨も降ったけど、会員同士のふれあいが深まり、非常に盛り上がりました。泊の人たちはみんな泣いていました。もちろん、私も。こみあげてくるのをおさえるのが大変でした。
本当に驚いた! だって大方の予想を覆し、750人もの人が集まったんだもの。大会は雨も降ったけど、会員同士のふれあいが深まり、非常に盛り上がりました。泊の人たちはみんな泣いていました。もちろん、私も。こみあげてくるのをおさえるのが大変でした。
プレー後の夜の宴席で、アシックスの担当部長が私を呼び、「この人だ、頑張ったのは!」と、みんなの前でいってくれました。南部先生も満足そうに微笑んでいて、とても嬉しかったな。
第1回の全国交歓大会が大成功を収め、マスコミ各社も報道したことで、グラウンド・ゴルフは一気に普及していきました。
◆誰かが必ずみていてくれる
全国交歓大会の盛況振りが広く知れ渡り、愛好者が飛躍的に増加し始めたグラウンド・ゴルフ。その後、スポーツ・レクリエーション祭の正式種目に決定し、各県で協会設立が相次ぐなど大きな進展をみせます。しかし、日本協会の事務局員は相変わらず戸塚さん、ただ一人。業務が激増する中、協会創立10周年記念式典、法人認可取得申請等の準備も加わり、孤軍奮闘で耐え抜く日が続きました。
全国交歓大会から3カ月後の11月、山梨県で第1回全国スポーツ・レクリエーション祭(1988年から2011年まで)が開催され、グラウンド・ゴルフが正式種目として採用されました。また、千葉、山梨、長野、滋賀、福岡などで県協会の設立が相次ぎ、日本協会の仕事は多忙を極めました。それでも、事務局員は相変わらず私一人。どんどん増える業務で、次第に身動きが取れなくなっていきました。
そんな状況が続いていた翌年(89年)の1月、母が危篤に陥りました。でも、知らせを受けた日は日本協会の理事会があり、唯一の事務局員である私が欠席するわけにはいきません。心の動揺を隠しながら、会議に臨みました。しかし、遅くまで残務整理をしているとき、どうしても耐えられなくなって、たまたま電話した協会役員の先生に話してしまいました。そうしたら、「バカヤロー!」って一喝されて……。「お前さんね、親の命は待たないんだぞ。早く行け!」といわれ、ようやく母のもとへ駆けつけることができました。
あのとき、その先生に怒ってもらわなかったら、私、ずっと事務所にいたままだったと思うんです。普段ぶっきらぼうで、怖い人だと思っていたけど、とても人情が厚かった。結局、母の最期に立ち会えませんでしたが、今思い出しても感謝の気持ちで胸がいっぱいになります。時を経ても、人の心の温かさは忘れられませんね。
その後、事務局員も数人に増え、93年7月、日本協会創立10周年記念式典が日本青年館で挙行されました。また、同月には10周年記念誌も刊行しましたが、そうした諸々の費用は私がかき集めました。総額450万円ぐらい。我ながらよくやったと思います(笑)。
そして翌年の11月10日、日本協会は発足から10年間の活動実績が認められて、当時の文部省から社団法人の認可を受けました。ちなみに11月10日は私の誕生日。文部省の担当の方から、設立日を11月10日か11日のどちらかで選んでくれっていわれて、南部先生や役員の先生方が私の誕生日に決めてくださったの。法人申請の書類作成から手続きまですべてやったから、そのご褒美だったんでしょうね(笑)。
おまけに法人申請の際、私も協会の役員にしていただきました。後で先生方に聞いた話だと、文部省の方が「戸塚さんを入れなければダメだ!」って強く主張してくれたそうです。書類作成は苦労の連続で、毎日文部省から電話があり、文章の「てにをは」まで細かく指摘されて……本当に泣かされました。「もうやらない! 法人認可なんか必要ない!」って何度も思ったけど、最後までやり遂げてよかった。
法人申請でお世話になった文部省の方は今、出世して内閣官房にいるみたい。先日、日本協会のある先生がその方と会い、「戸塚さん、お元気ですか?」って聞かれたそうです。いつまでも人の記憶に残れるなんて、とっても素敵で有り難いことですよね。
どんなに大変で苦しくても、自分に与えられた試練と思って頑張っている姿は、誰かが必ずみていてくれる。誰かがきっと応援してくれている。そう信じています。
(「心の健康を探る②」に続く/次回は日本協会退職後の日々、
難病体験、人生観などを語っていただきます!)
難病体験、人生観などを語っていただきます!)